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高野山に籠った法然〔論文〕

[登録カテゴリー: 歴史学



長谷川 浩文 (はせがわ こうぶん)

【筆者】 長谷川 浩文 (はせがわ こうぶん)

 

1963年生。1988年同志社大電子工学科卒、京都工芸繊維大学院博士(1998年、工学)。メーカー勤務を経て、実家のお寺で修行。現在、浄土宗西山深草派大善寺住職、浄土宗西山深草派宗学院助手。専攻は中世浄土学および『中論』。最近は、法然上人の高野山での行実研究を進めている。各種講習会で講師を務める。

【学術論文】

   

「高野山に籠った法然」(『印度学佛教学研究』第63巻第1号、2014
「『頼慶記』に見られる法然」(『印度学佛教学研究』第62巻第1号、2013
「和泉阿闍梨源空」(『印度学佛教学研究』第61巻第1号、2012) ...その他多数

 

 


 

 

はじめに


法然(1133~1212)の史跡や伝承が、高野山に数々存在することがこれまでの研究で明らかとなった。(*1) 聖光房弁長(1162~1238)は、『念仏名義集』に顕真法印(1131~1192)・法然上人・明遍僧都(1142~1224)が高野山に籠ったと述べていることが明らかとなる。 弁長が述べた話は、『紀伊続風土記』にある法然が高野山に千日籠り清浄心院谷にあった曼荼羅堂に隠遁し、毎日、奥院に詣でたという伝承が最も妥当と考える。 遊行一四代太空(1375~1439)は、永享九年(1437)の沙門弘範(生没年不詳)『客坊勧進状』によって曼荼羅堂を再興したと思われる。




一、『念仏名義集』


『念仏名義集』は、法然の直弟子であった鎮西流の祖、聖光房弁長の著書で上中下三巻からなり、巻頭にはそれぞれ「釈弁阿述」とある。 巻下後半に「歳七十ニマカリ成テ」とあるので、弁長七十歳(寛喜三年(1231))の著書である。 巻上後半に、次のような記述がある。(*2)


(前略)
又善導モ、法花経浄名経ヲ読ミシカドモ道綽禅師ニ値イ奉リ、今度生死ヲ出ル道ヲ習イ法花浄名経ヲ打チ置テ、一向ニ念仏シテ往生ヲ極メ給ウ。サレバ、古エヨリ上人我ガ朝日本国ニ道心深ク発シテ、後世ヲナゲキ生死ヲ厭ウ人々ノ中ニ、比叡山大原ノ顕真法印ト申セシ天台ノ和尚、同ク黒谷ノ法然上人、光明山ノ明遍僧都、奈良ノ都ニ有リ難キ智者トノノシリシ人々、高野ノ御山ニ掻キ籠リ給イシ。是レ等ノ人々コソ、日本ニ於テハ奈良ノ都平ノ間ニイミジク貴カリシ学匠智者達ニテマシマセドモ、年来ノ顕密ノ法門ヲ閣テ念仏ノ一門ニ入リ給ウ事、哀レニ貴ク目出度キ念仏ニテ候ゾカシ
(後略)


顕真法印・法然上人・明遍僧都は奈良の都には有り難き智者と高く評判になっていて、高野山に籠ったと記されている。 「搔(カキ)籠リ給ヒシ」とあるので、都の喧噪を搔き分けて逃れるように高野山へ籠ったと読み取れる。 このような貴い学匠智者でも顕密の法門を閣て念仏の一門に入ったのであるから、念仏は価値のあるすばらしいものとある。


著者は、中世後期から近世前期にかけて活躍した頼慶(1562~1610)の『頼慶記』、並びに近世前半に活躍した懐英(1642~1727)の『高野伽藍院跡考』に、それぞれ法然が文治年間(1185~1190)の始め、高野山蓮花谷に居住した明遍を訪ねた記事のあることを明らかにした。(*3) 『念仏名義集』は寛喜三年の著書であるから、『頼慶記』や『高野伽藍院跡考』よりも370年~470年ほど遡る史料である。


弁長は、法然の膝下で過ごしたことを『念仏名義集』の中で、次のように記している。(*4)


(前略)
此ノ奴、三十六ト申セシ年ノ五月ノコロヨリ、法然上人御房ニ参テ四十三ノ歳ノ七月マデ、辨阿ハ八年相イソイマイラセテ浄土ノ法門ヲ教ヘラレ奉リ候シニ、年ノヨラセマシマシテ年ノ暮レ様ニハ、常ニ御覧スル人ヲモエ見知ラセ給ハヌ事ニ候シカドモ、上人ノ仰セ候シ様ハ我ガ身今ハ年闌テ、日ゴロ見タル人ヲモ忘レタレドモ、手ツカノ許ヲバ忘レヌ也
(後略)


弁長は、36歳(建久八年(1197))から43歳(元久元年(1204))までの八年の間に法然から直接、顕真法印・法然上人・明遍僧都が高野山に籠った話を聞いたと考えられる。 『末代念仏授手印』と『念仏三心要集』においても、弁長はこの三人を賞賛していて、法然等が高野山に籠った話を『念仏名義集』にのみ記した。 話を聞いてから『念仏名義集』著述まで、およそ三〇年が経過している。 『法然上人行状絵図』巻四六には、次のように弁長は高野山のことを述懐しているので、高野山に籠ったことがあったのであろう。(*5)


(前略)
つねの述懐には、「人ごとに閑居の所をば、高野・粉河と申あへども、我身にはあか月のねざめのとこにしかずとぞおもふ」と。また安心起行の要は念死念仏にありとて、つねのことわざには、「出るいきいるいきをまたず、いるいき出るいきをまたず。たすけ給へ阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」とぞ申されける。
(後略)


法然の孫弟子に当たる敬西房信瑞(?~1279)が著した法然門流の言行録『明義進行集』に、明遍の言葉が次のように記されている。(*6)


(前略)
又病中ニ或時カタテイハク経ノ文ニモ詮要ハ称名ヲノミスヽメラレタリ往生ノ想引接ノ想ナトイフタニモナヲオモヒエカタシタヽホトケタスケタマヘトオモヒテ相続不断ニ称名スルニハシカスト
(後略)


明遍が語った「タヽホトケタスケタマヘトオモヒテ相続不断ニ称名スル」と、弁長が語った「たすけ給へ阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」は、同じ話であるから弁長は明遍からこの話を直接聞いたと考えられる。 『明義進行集』によると、明遍は「高野ニ住シテ三十余年跡聚落ニイラス」とあるので、建久年間中頃には高野山へ山籠している。弁長が都に滞在した期間を考えれば、明遍から直接話を聞くには高野山へ登山する以外不可能であり、この点からも弁長は高野山へ籠ったことがあったと言える。




二、高野千日山籠


『紀伊続風土記』には、法然が高野山に千日籠り清浄心院谷にあった曼荼羅堂に隠遁し、毎日、奥院に詣でたことが記されていた。(*7) 「参籠のこと太平記にも見ゆ」とあったが、『太平記』を調べたが現時点ではこの記事は見当たらない。 この他に同様の伝承が、『通念集』、『野山名霊集』、『紀伊名所図会』にも記されている。 曼荼羅堂は、延喜年間(901~923)頃に活躍した阿曾宮神主友成(生没年不詳)が建立したと思われ、その史料を次に引用する。(*8)


(前略)
九品堂と云額あり。其の裏に彫れる文に云。當九品堂は昔時に阿曾の宮神主友成の建立、額は遊行十四代他阿上人筆跡也。数年破壊にゆきわたるところ、文禄四年乙未、木食興山上人應其再建を企てる。當住秀存賢應、之れを相い造り畢ぬ。慶長七年寅五月十五日、九品堂賢應と書し花判あり。
(後略)


九品堂とは曼荼羅堂を指し、「九品堂」という額が曼荼羅堂に懸かっていたのであろう。 賢応(生没年不詳)は、額の裏面に曼荼羅堂が阿曾宮神主友成の建立と記した上で、額は遊行一四代他阿上人の筆跡と記した。 遊行一四代目に当たる人物は、室町時代中期に活躍した太空である。 『紀伊続風土記』には、この頃の高野山の様子を次のように記している。(*9)


(前略)
永享九年六月日、沙門弘範客坊勧進状(割注 正智院所蔵)に、ことに貴賤甲乙恩助ヲ蒙リ緇素男女ノ奉加ニ預リ、高野山ニ於イテ客坊ヲ建興セント請ウ状。(中略)或ハ、炎夏暑月穀醤ヲ断チ、昼夜神呪ヲ持念ス。玄冬素雪弊衣ヲ著シ、三時、密行ヲ預修セント企テルノ族有ル。此ノ如ク行学懇志ノ来賓客住、頗ル之レ多シ。(中略)此ノ頃、客坊を創立せしと見ゆ。此ノ挙なき已前は、由緒の院室に倚頼付託して淹留せしと思わる。
(後略)


永享九年(1437)沙門弘範は、『客坊勧進状』によって客坊建興を企てた。 この当時、来賓客が頗る多かったため客坊が創立され、以前は人々は由緒ある院室に住したとある。 太空は来賓客として曼荼羅堂に住し、曼荼羅堂を再興したのではないであろうか。九品堂の額を掲げたのはそのためであろう。 正保三年(1646)三月の『満寺総絵図院号帳』には、四十二軒の客坊が記されていて、この中に清浄心院谷の曼荼羅堂が確認できる。(*10) 永享九年頃、曼荼羅堂は清浄心院が管轄する客坊であったと考えられる。 友成が曼荼羅堂を建立したとなると、法然が活躍する250年ほど前に曼荼羅堂は高野山に存在したことになる。 著者は数年前この地を訪ねて、人の手によって整地されていることを確認した。 現在、清浄心院谷には清浄心院を除く寺院は残っていないが、友成が曼荼羅堂を建立したことは十分あり得る。 また、法然が活躍した頃、曼荼羅堂が客坊であったとすると、法然は高野山では客僧とみなされていたことになる。 「玄冬素雪弊衣ヲ著ス、三時密行ヲ預修ント企ル之族(ヤカラ)」とあるから、来賓客は三冬の厳寒の間も高野山を下山することなく山籠したと思われる。 法然が高野山に千日籠り、曼荼羅堂に隠遁したことが事実であるならば、まだ若かりし頃の話であろう。 法然年表では、 保元二年(1157) から承安四年(1174)の間は、全く法然の事績は空白である。(*11)法然が二五歳から四二歳の頃に相当し、三冬の厳寒の間も山籠は可能である。 法然は、保元元年(1156)嵯峨清凉寺に七日間参籠の後、南都に諸宗の学匠を歴訪した。その頃、高野山へ搔き籠ったと考えられる。



おわりに


法然の直弟子であった弁長は、『念仏名義集』に顕真法印・法然上人・明遍僧都が高野山に籠ったと述べていることが明らかとなった。『念仏名義集』に記された「搔(カキ)籠リ給ヒシ」に相当する最も妥当な伝承として、法然が高野山に千日籠り清浄心院谷にあった曼荼羅堂に隠遁し、毎日、奥院に詣でたことが挙げられる。承和二年(835)八月の官符によれば、当時高野山に修学練行のため千日籠ることは慣例のようであった。(*12)法然が千日籠ったのも、この官符に習ったと考えられる。





注記


*1 拙稿「清浄心院谷にあった曼荼羅堂(その一)」『西山学報』第三号、2011年、39頁
*2『念仏名義集』巻上(『浄土宗全書』第10巻、1910年、368頁)
*3 拙稿「『頼慶記』に見られる法然」『印度学仏教学研究』第62巻 第1号、2013年、111頁
*4『念仏名義集』巻中(『浄土宗全書』第10巻、373頁)
*5『法然上人行状絵図』(大橋俊雄校注『法然上人絵伝』(下)、岩波書店、2002年、241頁)
*6『明義進行集』(大谷大学文学史研究会編『明義進行集影印・翻刻』法蔵館、2001年、115頁)
*7『紀伊続風土記』(『続真言宗全書』第36、1979年、370頁)
*8『紀伊続風土記』(『続真言宗全書』第37、1980年、286頁)
*9『紀伊続風土記』(『続真言宗全書』第39、1982年、273頁)
*10『紀伊続風土記』(『続真言宗全書』第39、274頁)
*11 安達俊英等『別冊太陽法然』平凡社、2011年、178頁
*12『紀伊続風土記』第五輯、帝国地方行政学会、1911、13頁

<キーワード> 法然、聖光房弁長、『念仏名義集』、『紀伊続風土記』


 

 

 

高野山に籠った法然〔論文〕の画像1

 

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