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熊谷直実の「誓願状」と雄俊説話

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湯谷 祐三(ゆたに ゆうぞう)

【筆者】 湯谷 祐三(ゆたに ゆうぞう)

 


 

 


 

 

熊谷直実の「誓願状」と雄俊説話

―――――法然門下の思想と行動に見る中国往生伝説話の影響―――――


湯谷 祐三




1).


熊谷直実は、残された種々の逸話に見られるその激しい言葉と行動によって、まさに専修念仏門に熱烈に帰依した鎌倉節の典型的人物として現代に伝承されてきたと言えよう。(1)

そのユニークな人柄ゆえに、直実をめぐっては虚実入り交じった様々なエピソードと資料が伝わっているが、その中でも清凉寺に伝来する「蓮生法師誓願状」(「熊谷直実自筆置文」とも。以下「誓願状」と略称する)は、戦後幾多の諸先学により直実の自筆文書であることが既に考証されており、念仏者直実個人の思想をうかがう上からは勿論の事、法然門下の思想の実態を示すものとしても大変貴重な資料である。(2)

本稿では、この「誓願状」の中でも、直実の出自・正確に由来し、その個性を表現すると従来は考えられてきた、釈迦や弥陀や善導に対して「妄語」の罪を受ける云々と呼ばわる、いわば教主や先師を恫喝するような文言について、中国の往生伝説話との類似点を指摘し、説話が法然門下の思想や行動様式に与えた影響の一端を考察すると共に、熊谷直実の熱烈な「上品上生願」の理由についても、「還相廻向」の観点から再考したいと思う。

「誓願状」は冒頭より以下のようなことになっている。(3) 引用に際しては刊行されている影印本を元に一部表記を改め、拙論に関係する部分には傍線を施した(本稿の引用文における傍線部はすべて引用者に拠る。□は料紙の欠損を表す。)


元久元年五月十三日とハなるところ□て、上品上生のらいかうのあみたほとけのおまえにて、僧蓮生くわんをおこして申さく、こくらく二うまれたらん二とりてハ、みのらくのほとハ下品下生なりともかきりなし。(A)しかれとも天たいの御さくに下し八品不からい生とおほせられたり。おとなしくハいつさいのうえんのすしやう一人ものこさすらいかうせん。もしハむえんまて二も思ひかけてとふらはんかために、たゝひとへに人のために蓮生上品上生二うまれん。さらぬほとならハ下八品二ハうまるまし。かくくわんをゝこしてのち二又いはく、えしんのそうつすら下品の上生をねかう給へり。いかにいはんや、まつはいのしうしやう上品上生する物ハ一人もあらし、とひしりの御ハうのおほせ事あるをきゝながらかゝるくわんをゝこしはてゝいはく、まつたいに上品上生する物あるましき二、(B)しかもよろつふたうなるれんせいいかて上品上生二ハうまるへきそ。さなくハ下八品二ハうまれしとくわんしたれはとて、あみたほとけもしむかへ給はすハ、たいゝちにみたの品くわんやふれ給ひなんす。つき二みたのしひかけ給ひなんす。つき二たのくわん上すのもんやふれ給ひなんす。つきにしやかのくわんむれやうすきやうの十あくの一念の往生、つきに五きやくの十念往生、又あきたきやうのもしハ一日、もしハ七日の念仏往生と又六方五うさのもろ〱ののほとけのそうしやう又せんたうくわしやうの下し十しやう一しやうとう丈とく往生のさく、又なによりもくわんけやうの上品上生の三心くそくの往生、それをせんたうのさくのくそく三心ひつとく往生や、ねやくせういんしんそくふとく生、又せんすの物ハ千ハ千なからのさく、(C)ことゞくこれらほとけのくわんとい、ほとけのことハといヽせんたうのさくといヽ、もし□□□をくかへ給ハすハ、みなやふれて、おの〱まうこのつみえ給ひなんす。いかてかおおさうのきんけんむなしかるへきや。又くわうみやうへんせう十万せかいのもん、又しかい一人念仏みやうのもん、このきんけんともむなしからし。いよ〱これらのもんをもてうたかいなきなりと思、蓮生かあやまちにハいさいのうえんのともからすなハちたかへりてむかへんとて、くわんをヽこして上品上生ならすハ、むかへられまいらせしといふ、かたきくわんをヽこしたるか、よくひか事ならん。丈五きやくの物はかりハあらし。しかれハいかなりとも、むかへたまはぬ事あらし。そのきならハ上品上二こそあんなれ。これをうたかハぬ心ハ三心くそくしたり。上品上生二うまるへきくゑちヽやう心をこしたり。そのきほんなう、たんしたり。そのさとりをひらいたり。せんたうまたてんたいこの事をみる物ハ上品上生うまる。(後略)

提示した部分の主題を一言で表現すれば、上品上生の往生を遂げたいと言うに尽きるが、なぜそれほどまでに上品上生に執拗に拘るのかというと、傍線部Aの部分、「天たいの御さく」(天台の御釈)なるものに「下し八品不からい生」(下之八品不可来生)とあり、これに拠れば、上品上生以外の往生では「来生」することができない、つまり、もう一度この現世に生まれ帰ることができないというのである。

さらにこの世に「来生」したいその理由は、自分のためでは無く、「たヽひとへに人のため」であり、「いつさいのうえんのすしやう一人ものこさすらいかうせん」(一切の有縁の衆生一人も残さず来迎せん)がためであるという。

そして、傍線部Bの部分、「よろつふたうなる」(万不当なる)自分がそのような大望を抱いたからといって、「あみたほとけもしむかへ給はすハ、たいヽにみたの品くわんやふれ給ひなんす。」(阿弥陀仏もし迎へ給はずば、第一に弥陀の本願破れ給ひなんず。)と高言して、以下、「弥陀の慈悲」、「弥陀の願成就の文」、「観無量寿経の十悪の一念のお往生」、「五逆の十念往生」、「阿弥陀経の若一日若七日の念仏往生」、「六方恒沙の諸仏の証誠」、「善導和尚の下至十声一声等定得往生の釈」、「観経の上品上生の三心具足の往生」、「善導の釈の具足三心必得往生」等、専修念仏者が信心の拠り所とする所の重要な種々の法門は皆、傍線部C「もし□((「れん) □(せい」) □(カ))をむかへ給ハすハ、みなやふれて、おの々々まうこのつみえ給ひなんす。」(もし蓮生を迎へ給はずば、みな敗れて各々妄語の罪得給ひなんず)と仏教及び念仏の祖師達を厳しく断罪するものである。

「誓願状」はこの後、善導の夢に言及し、更に自身の見た瑞夢によって自らの上品上生往生の実現に自信を深めていく心情が語られるのであるが、それにしても、上品上生の願がかなわなければ、釈迦以来の善導和尚、法然上人など、専修念仏の祖師達はすべて「妄語」の罪を得るであろうという、まさに祖師達を恫喝し脅迫するような激しい言葉からは、他力本願に安信立命した平静な境地はうかがえず、むしろ武士として幾多の生死の修羅場をかいくぐってきたであろう直実個人の強靭な意思の発露とも思われ、従来から「誓願状」はそのような観点で理解されている。(4) ところが、熊谷直実と同じく法然門下の一人である親鸞もまた次のように発言したと弟子の唯円が『歎異抄』に記している。(5)

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、戯言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、戯言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。



先の直実の言葉に比較すれば、その呵責の厳しさはさすがに直実ほどではないが、注目すべきは、弥陀から釈迦、釈迦から善導、善導から法然、法然から親鸞へと、あたかも尻取りのように「戯言なるべからず」と畳みかけて連呼するその言い回しが、直実の「誓願状」傍線部Bから傍線部Cにかけての部分とよく似ているのである。子の直実と親鸞の言説が類似する理由については従来明らかでない。(6)

「誓願状」に見られるような、祖師や経典に対し自身の上品上生往生の実現を激しく迫る直実の言葉の背景には、武士出身であるという直実の出自や、その「強情な」性格がえいきょうしているというのが従来大方の見方であるが、一方で親鸞が同様な言い方をしていたとなれば、「誓願状」に見られる「恫喝の論理」とも言うべき言説が、必ずしも直実個人の特質にきせられるものではないということになり、これまでの直実の性格の解釈に何らかの修正を迫る点があるのではないか。



2).


これまで「誓願状」との比較検討という文脈において特別に取り上げられ論じられたことはないようであるが、後述のごとく日本の中世社会でよく流布した中国の往生説話の中に雄俊の話がある。この説話は唐代から明代に至るまでの各種の往生伝に収録されているが、最も素朴な形を持つのは唐の少康撰『往生西方浄土瑞応刪伝』に所収される「僧雄俊第二十一」であろう。(7)


僧雄俊。姓周。城都人。善講説。無戒行。所得施利。非法而用。又還俗入軍営殺戮。逃レ難却入僧中。大暦年中。見閻羅王。判入地獄俊高声曰。雄俊若入地獄。三世諸仏即妄語。王曰。仏不曾妄語。俊曰。観経下品下生。造五逆罪。臨終十念。尚得往生。俊雖罪。不五逆。若論念仏。不其数。言訖往生西方。乗台而去。

雄俊は戒律を守らず講説によって得た利を良からぬことに使い、また出家と還俗を繰り返して戦陣で殺人を行っていた。その死後、閻羅王により堕地獄を宣告されるが、その時、王に対して「もし自分が地獄に堕ちるならば、三世の諸仏は妄語をしたことになるぞ」と高声に叫ぶ。「仏は嘘をつかない」という王に、『観無量寿経』下品下生段の「五逆を造る者も臨終の十念により往生することができる」という文を根拠に挙げて、「自分は五逆までは犯さず、念仏は数知れないぞ」と雄俊が主張した時、彼は即座に台に乗って西方へ去ったという説話である。

注目されるのは、傍線部に「俊高声曰。雄俊若入地獄。三世諸仏即妄語。」とあるように、自分が堕地獄すれば諸仏は妄語したことになると主張する言葉で、先に挙げた直実の「誓願状」傍線部Cの「もし蓮生を迎へ給はずば、みな破れて各々妄語の罪得給ひなんず」と甚だ類似した言説となっており『歎異抄』に出る「戯言」や「そらごと」などとも似通った物言いである。また、「観経下品下生。造五逆罪。臨終十念。尚得往生。」と経典を抄出して自説の根拠としているが、これも直実が多く挙げた法門の内に「つきに五きやくの十念往生」と見えているものである。

よって、直実の「誓願状」の言説に見られる発想は、武士出身という出自や激しい一徹な性格という彼の個性のみに起因するものではなく、こうした雄俊説話の影響を見るべきではないかと思われるのである。

日本における雄俊説話の引用例として早いものは、源信仮託節が有力『観心略要集』はしばらく置き、次に揚げる康和五年(1103年)成立の永観編『往生拾因』であろう(8)(〈〉内は割注である)。



雄俊者還俗入軍之輩也。乗台而去。此等皆是心不法弱之力也。而今弟子戒行雖闕。猶未還俗入軍。行業雖疎不退三時念誦。何況深恃弥陀之願鎮唱十念。偏修極楽之業。無背四儀〈具注別紙。可読之〉。彼雄俊尚生。我等何疑。

傍線部は先の『往生西方浄土瑞応刪伝』の前半の言葉と最後の一句をつなぎあわせたもののごとくであるから、『瑞応刪伝』を典拠とすると考えられる。「還俗入軍」などの雄俊の悪行を述べた後、それに比べて我らは遥かに念仏行に怠りなく専念していることを対比的に強調しているが、興味深いのは、最後の一句、「彼の雄俊すら尚生まる。我ら何ぞ疑わん。」と、雄俊の説話をいわば「悪人」往生の代表例に挙げて自らのお往生の確実性を証するその口調である。『往生拾因』において、雄俊は浄土教における悪人の典型として認知されることになったのではないか。(9)

ところで直実の師法然には、『浄土五祖伝』や『類聚浄土五租伝』などの、善導を始めとする中国の浄土教の祖師の伝記を編纂した著作があり、各種の高僧伝や往生伝の類を参照していたとこが分かる。(10) 上の『往生西方浄土瑞応刪伝』もその中に含まれているが、法然の法語とされる「登山状」には『瑞応刪伝』とは少しく異なるタイプの雄俊説話が引用されている。(11)

かの雄俊といひし人は、七度還俗の悪人也。いのちをはりてのち、獄卒閻魔の庁庭にゐてゆきて、「南閻浮堤」第一の悪人、七度還俗の雄俊、ゐてまいりてはんべり」と申ければ、雄俊申ていはく、「われ在生の時、観無量寿経をみしかば、五逆の罪人阿弥陀ほとけの名号をとなへて極楽に往生すと、まさしくとかれたり。われ七度還俗すといへども、いまだ五逆をばつくらず、善根すくなしといへども、念仏十声にすぎたり。雄俊もし地獄おちば、三世の諸仏妄語のつみにおち給べし」と高声にさけびしかば、法王は理におれて、たまのかぶりをかたぶけてこれをおがみ、弥陀はちかひによりて金蓮にのせてむかへ給き。いはんや七度還俗にをよばざらんをや。(後略)

右は『法然上人絵伝』巻三十二におさめられているものだが、(元亨版『拾遺語灯録』巻中所収のものも同文)、『沙石集』で知られる尾張長母寺の無住が嘉元三年(1305年)に編纂した『雑談集』巻四にも、ほぼ同文で見えることから、少なくとも鎌倉後期には、雄俊は「七度還俗の悪人」としてよく知られた存在であったようで、例えば鎌倉後期までには成立していたであろう仏教説話集『宝物集』巻四(七巻本)にも次のようにある。

むかし、七度還俗したるものありき。釈雄俊なり。重罪なるがゆへに、大地獄につかはしける。「七度還俗したる罪によりて、大地獄におつ。七度出家したる功徳はあるべからずや。」と申ければ、閻魔大王、玉の冠をかたぶけて、おがみたまひたりとこそ申ためれ。

わずかの記事中に「七度還俗」繰り返し使われる一方で、原拠たる『瑞応刪伝』で言われていた、軍営に入り殺戮に従事したということなどは省略されてしまっており、「七度還俗」の方に重点が移されていることを知るが、『瑞応刪伝』を始め中国に伝来した往生伝類には、この「七度還俗」を記す雄俊説話は見当たらない。

雄俊の出家還俗「七度」を記す文献こそ、つと塚本善隆氏が紹介された真福寺蔵『往生浄土伝』である。本書は塚本氏に拠れば、「おそらく十二世紀後半記に京都地方の僧徒によって、遼の非濁の『随願往生集』二十巻から抄出せられ宋の戒珠の名に仮託せられて世に出たものと推定している。」とのことである。(12) 同氏が「偽戒珠伝」とも称するこの往生伝の中世日本における広範な流布状況には誠に目を見張るものがあるが、その『往生浄土伝』巻上所収の雄俊説話を次に揚げる。



僧雄俊念仏往生浄土第四
僧雄俊者梁朝人也。善説法无戒行、所得利養、非法食用シテ會還俗入軍、行殺戮、
俗中而復還僧コト凡七反矣、忽死経一日蘇言、炎王判入地獄、俊高声曰、俊若堕地獄、三世諸仏即成妄語、炎王怒曰、還俗之罪、過出仏身血、又復殺人甚多、諸仏金口誠諦之言、何成妄語。俊曰、會見観経、下品生者五逆罪、臨終十念、尚得往生、吾雖造罪業、不作五逆、若論在生念仏、即無数也、若入地獄、誰信仏語、応声花座現空中、炎王曰、善哉阿師得浄土迎、獄中所有聞者、亦皆念仏、不久悉得往生、師蹔時還人間、為不信者、示不如法念仏功用希奇、時俊可王言、花台向小路、俊亦纔入路、台不現、聞是語者。多謂俊誑言、其後六時念仏、三月无病而卒、隣里郷閭、或有聞音楽者、或有見仏光明者、皆得信心、念仏者多矣。〈先伝雖載此人甚髣髴見者疑或仍今披梁記委悉其始末重注載之。〉


雄俊は戒律を守らず講説によって得た利を良からぬことに使い、また出家と還俗を繰り返して戦陣で殺人を行っていた。その死後、閻羅王により堕地獄を宣告されるが、その時、王に対して「もし自分が地獄に堕ちるならば、三世の諸仏は妄語をしたことになるぞ」と高声に叫ぶ。「仏は嘘をつかない」という王に、『観無量寿経』下品下生段の「五逆を造る者も臨終の十念により往生することができる」という文を根拠に挙げて、「自分は五逆までは犯さず、念仏は数知れないぞ」と雄俊が主張した時、彼は即座に台に乗って西方へ去ったという説話である。

注目されるのは、傍線部に「俊高声曰。雄俊若入地獄。三世諸仏即妄語。」とあるように、自分が堕地獄すれば諸仏は妄語したことになると主張する言葉で、先に挙げた直実の「誓願状」傍線部Cの「もし蓮生を迎へ給はずば、みな破れて各々妄語の罪得給ひなんず」と甚だ類似した言説となっており『歎異抄』に出る「戯言」や「そらごと」などとも似通った物言いである。また、「観経下品下生。造五逆罪。臨終十念。尚得往生。」と経典を抄出して自説の根拠としているが、これも直実が多く挙げた法門の内に「つきに五きやくの十念往生」と見えているものである。


自分が堕地獄すれば諸仏の「妄語」となると主張する点は原拠たる『瑞応刪伝』を書承してり、更に出家還俗の回数を「七度」と明記していることから、『往生浄土伝』が「登山状」や『雑談集』『宝物集』に対して『瑞応刪伝』よりも近似した典拠であることがわかり、鎌倉期の日本で流布していた雄俊伝は『往生浄土伝』の形が主流になっていたと推定される。

改めて直実の「誓願状」を念頭に置きつつ、『瑞応刪伝』と『往生浄土伝』の両者を比べてみると、「妄語」云々の物言いの類似は既に指摘した通りであるが、閻魔王と問答した後の雄俊の動向が、『瑞応刪伝』と『往生浄土伝』とでは、まるで異なっている点は看過できない。

前者では雄俊は即座に西方へ往生しただけであるが、後者では、閻魔王は雄俊に対して、「随時還人間、為不信者、示不如法念仏功用希奇」と、娑婆に立ち戻って「不信者」のために念仏の功用の奇特なることを身を以て示せと勧め、雄俊もその勧めに従い一旦娑婆に蘇り、六時念仏を続けて奇端を伴う往生を遂げて念仏信仰者を増やしたとする。

この娑婆へのモティーフは、「七度還俗」のモティーフと同様に、『往生浄土伝』以外の往生伝類に所収される雄俊説話には見られない要素なのである。

法然の述作とされている「登山状」や仏教説話集『宝物集』などの雄俊伝は、諸仏への「妄語」非難や、出家還俗の回数を「七度」と明記することから、『往生浄土伝』の系統に連なる説話ではあるけれども、「七度」や「妄語」と並んでもう一つの重要な要素である「随時還人間」という部分は欠落している。『往生浄土伝』所収の雄俊説話の要点は、次の三点に絞られるであろう。


1.雄俊は七度出家還俗を繰り返し、軍隊に入り殺戮を行ったことがある。

2.堕地獄した雄俊は、閻魔に対して観経の要文を根拠に仏の妄語を非難する。

3.雄俊は娑婆に立ち返り、改めて往生の奇端を示して念仏信仰を広めた。


1と2は『瑞応刪伝』系統の雄俊説話に継承されている要素ではあるが、3は『往生浄土伝』のみが記す独自記事である。これら三点は直実の「誓願状」に見られる思想とよく符号している。「悪人」である自身が往生を果たすだけでなく、「悪人」の往生を人々に示して、すべての人間を救う念仏信仰の生きた証となることが『往生浄土伝』の示した雄俊像であり、これは「誓願状」で「一切の有縁の衆生一人も残さず来迎せん」と述べた熊谷直実の信念に通じており、「誓願状」を記すに至るまでの直実の信仰体験のどこかで、『往生浄土伝』の雄俊説話との接触があったことを思わせるに充分である。

直実はかつて見聞したであろう『往生浄土伝』(あるいはそれを忠実に書承する源信仮託の『歓心略要集』など(13))の雄俊説話から影響を受け、「よろつふたうなる」(「誓願状」傍線部B)自分自身を、密かに「悪人」往生の代表者たる雄俊に擬して自身の往生を演出するかのごとく「誓願状」を書き記したと思われる。




3).


直実が「誓願状」の中で執拗に上品上生の往生に拘ったのは、地震記すがごとく、これ以外では、娑婆に立ち帰ることができず、「いつさいのうえんのすしやう一人ものこさすらいかうせん」という希望が叶わないと考えたからである。
その根拠として直実は「誓願状の」傍線部Aの部分で「天たいの御さく」に「下し八品不からい生」とあることを挙げており、直実の行動の原動力になったものとして、この要文の原拠と流布の状況が気になるのであるが、従来この典拠については明確になっていないようである。(14)
天台大師智顗撰の『維摩経玄疏』全六巻や『維摩経文疏』全二十八巻、更に智顗の弟子湛然が『維摩経文疏』を要略した『維摩経略疏』全十巻などにはいずれもこの要文は見当たらず、却って『維摩経略疏』の注釈書である北宋智円が大中祥符八年(1015年)に撰した『維摩経略疏垂裕記』において初めてみられるものであることがわかった。(15) 更にこの要文は、撰者不明平安末期の成立かとされる東大寺蔵『安養抄』巻二「問九品往生者為利物皆来娑婆耶」条で次のように引用されている(16)


浄名妙記云。若爾亦可娑婆即往於浄。答。下之八品不可来生。上品上生或可即能到彼土己獲通故来。故法花云。是人自捨清浄業報即来楽此多怒害処文。


このことからすると、法然は南部の浄土教学に接する過程でこの要文の存在を知り、これを入手したとも思われ、法然から直実に出された五月二日付の書状で(17)、「たんねんぶつのもん、かきてまいらせ候、御らん侯べし」とあるその「たんねんぶつのもん」というような一種の浄土教要文集とも考えられるものの中に、「下之八品不可来生」の要文も含まれていた可能性はあるだろう。法然の残した法語的内容を持つ書簡には、自身が往生した後、この娑婆に戻り不信の者を教化せよという言葉がしばしば見られる。


鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事(18)
凡ソ縁アサク、往生ノ時イタラヌモノハ、キケトモ信セス。念仏ノモノヲミレハ、ハラタチ、声ヲ聞テ、イカリヲナシ、悪事ナレトモ、経論ニモミエヌコトヲ申也。御ココロエサセタマヒテ、イカニ申トモ、御ココロカハリハ候へカラス。アナカチニ信セサラム人オハ、御ススメ候ヘカラス。カカル不信ノ衆生ヲオモヘハ、過去ノ父母兄弟親類也トオモヒ候、ニモ、慈悲ヲオコシテ、念仏カカテ申テ、極楽ノ上品上生ニマイリテ、サトリヲヒラキ、生死ニカヘリテ、誹謗不信ノ人オモムカヘムト、善根ヲ修シテハ、オホシメスヘキ事ニテ候也。コノヨシヲ御ココロエアルヘキナリ。


津戸の三郎へつかはす御返事(9月18日付)(19)
オホカタ弥陀ニ縁アサク、往生ニ時イタラヌモノハ、キケトモ信セス、行スルヲミテハ腹ヲタテゝ、イカリヲ含テ、サマタケムトスルコトニテ候也。ソノココロヲエテ、イカニ人申候トモ、御ココロハカリハユルカセタマフヘカラス。アナカチニ信セサラムハ仏ナホチカラヲヨヒタマフマシ。イカニイハムヤ、凡夫チカラオヨフマシキ事也。カカル不信ノ衆生ノタメニ慈悲ヲオコシテ、利益セムトオモフニツケテモ、トク極楽ヘマイリテ、サトリヒラキテ、生死ニカヘリテ、誹謗不信ノモノヲワタシテ、一切衆生アマネク利益セムトオモフヘキ事ニテ候也。コノヨシヲ御ココロエテオハシマスヘシ。


大胡の太郎実秀へつかはす御返事(20)
サトリタカヒアラヌサマナラム人ナトニ、論シアフ事ハ、ゆめゆめアルマシキ事ニテ候ナリ。ヨクヨクナラヒシリタマヒタルヒシリタニモ、サヤウノ事オハ、ツツシミテオハシマシアヒテ候ソ。マシテトノハラナトノ御身ニテハ、一定ヒカ事ニテ候ハムスルニ候。タタ御身ヒトツニ、マツヨクヨク往生ヲモネカヒ、念仏オモハケマセタマヒテ、クラヰタカク往生シテ、イソキカヘリキタリテ、人オモミチヒカムトオホシメスヘク候。カヤウニコマカニカキツツケテ申候ヘトモ、返返ハハカリオモヒテ候ナリ。アナカシコアナカシコ。


これらの関東の武家関係者に対して書かれた法語的書簡の言葉、とりわけ傍線部のようにまず自分自身が「上品上生」の「クラヰタカク」い往生を遂げて後、「生死」の世界に帰り来たり、「誹謗不信」の人をも導けという法然の言葉は、直実自筆の「誓願状」の傍線部Aの内容とよく符号し、直実の決意の源泉にこうした法然の言葉があったであろうことは想像に難くない。(21)

一度往生した者が、極楽に安住せず、再びこの娑婆世界に立ち戻り、広く衆生に極楽往生の思想を説き広めるという、所謂「還相廻向」の思想は、法然自身が傾倒する善導の『観経疏』巻四の散善義上品上生釈に「故名廻向発願心。又言廻向者。生彼国己還起大悲。廻入生死教化衆生。亦名廻向也。」とあり、(22) 法然はこの部分を含む『観経疏』の三心釈を主著『選択本願念仏集』の第八章段に多量に引用し、その私釈段で、「廻向発願の義、別の釈を俟つべからず。」として善導の解釈に全面的に依拠する旨を表明している。

善導は『往生礼賛』でも「故名回向門。又到彼国己。得六神通。回入生死。教化衆生。徹窮後際。心無厭足。乃至成仏。亦名回向門。」や(23)「乗仏本願。上品往生阿弥陀仏国。到彼国己。得六神通。入十方界。救摂苦衆生。」と述べており(24)、往生者は極楽に安住せずこの娑婆世界に立ち戻って衆生を強化することが望ましいという思想をもっていたことは疑えず、法然はそうした善導の著作に見られる還相廻向の思想をそのまま吸収し、特に関東の武家関係者に対する書簡においてしばしばそれに言及したのである。そうした教えに接した武士達は「還相廻向」の思想をどのように受け止めたのであろうか。それを考えるうえで示唆的な資料が、『平家物語』に描かれる清盛の孫維盛の入水往生の場面である。

清盛、重盛、維盛と三代続く平家直系の長男である維盛は、一旦は都落ちする平家の本隊と共に瀬戸内沿いに西へ向かうが、都に残してきた女房とその間に生まれた男子六代の安否が気掛かりとなり、単身屋島を抜け出し、元は父重盛の武士で今は出家して修行する滝口入道を頼って高野山に入る。帰洛の望みがかなわぬことを悟った維盛は、出家して滝口入道らを伴い熊野三山を巡礼した後、浜の宮から沖に漕ぎ出す。熊野の霊気に触れて入水の覚悟を固めた筈であったが、いざ船端に立ち水面に臨むと妻子への思いやみがたく入水することができない。

付き添う滝口入道は、恩愛の情の絶ちがたいことが菩提の妨げになると述べ、さらに奥州の合戦で多数の人間を殺した源頼義も臨終の一念によって往生したことを引き合いに出した後で、阿弥陀如来の誓願に説き及ぶ。その場面を『平家物語』諸本の中でも古熊を持つとされる延慶本で見てみる。(25) 


其上当山権現ハ、本地阿弥陀如来ニ坐マス。初メ無三悪趣ノ願ヨリ、終リ得三法忍ノ願ニ至マデ、一々ノ誓願衆生化度ノ願ナラズト云事ナシ。中ニモ第十八ノ願ニハ、説我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国。乃至十念、若不生者、不取正覚ト演ラレタレバ、一念十念恃アリ。小阿弥陀経ニハ、成仏以来於今十却トモ説テ、正覚ナラジト誓給シ仏ノ、既ニ正覚ヲ成テ、十却ヲ経給ヘリ。サレバ聊モ本願ニ疑ヲナサズ。無ニノ懇念ヲ至テ、若ハ一反唱拾物ナラバ、弥陀如来、八十万億那由他恒河沙ノ御身ヲ縮テ、丈六八尺ノ御形ニテ、廿五ノ菩薩ヲ奉引具、妓楽歌詠シテ、只今極楽之東門ヲ出給テ、来迎シ給ハムズレバ、御身ハ蒼海ノ底ニ沈ト思食トモ、紫雲ノ上ニ登給ベシ。来迎引接ハ彼ノ仏ノ願ナレバ、努々不可疑思食。成仏得脱シテ悟ヲ開給ナバ、裟婆ノ故郷ニ立帰リテ、難去被思食人々ヲモ導キ、悲ク思召ン人ヲモ奉見事、還来穢国度人天ノ本願、ナジカハ疑ベキ。侍我閻浮同行人ノ誓約、少モ謬ルベカラズトテ、頻ニ輪ヲ打鳴シ、隙無ク奉勧一ケレバ、可然善知識ト喜テ、忽ニ妄念ヲ飜シテ、向西叉手テ、高声念仏三百余反唱澄テ、即チ海ヘゾ入給フ。余三兵衛入道、石童丸モ同ク御名ヲ唱ツヽ、連テ海ヘ入ニケリ。(『延慶本平家物語』第五末)

熊野権現が本地が阿弥陀仏であることを指摘し、そこから第十八願に説き及ぶあたりは、まさに専修念仏僧の臨終説法を髪髴とさせるものであるか、特に注目すべきは、その長い唱導の最終段階において、傍線部のように還相廻向を進めている点である。数々の殺生に携わった身でも極楽へ往生することができるというのは、それはそれで誠に心強くありがたい教えであろうが、しかし、武士にとってはそれだけでは十分でなく、殺生に従事した悪人であっても、極楽に生まれた後は再び娑婆の故郷に立ち返り、離れがたくして分かれた者どもを守り導くことができるとの確信を聞いたればこそ、ようやく心を鎮めて市に臨むことができるのだという、どこまでも実際の臨終場面での言説を反映したと思われるのが、『平家物語』の維盛入水譚である。
還相廻向的思想は、法門の観点からすれば、遺してゆく肉親への絶ちがたい恩愛の情あるが故であることを、維盛入水譚は示しているように思われる。



4).


以上、熊谷直実自筆の「誓願状」の言説について、中国の雄俊往生説話と類似する点、また、特に武士達に対して説かれ、彼らに熱烈に支持されたと思しき法然の還相廻向的思想の観点から考察した。

仏教及び浄土教の祖師達に対して、「妄語」という言葉を使い激しく自身の上品往生を願う直実の特異な言説の背後には、殺戮を行い出家還俗を繰り返した中国の雄俊説話が間違いなく存在し、更に数ある雄俊説話の中でも、院政期以降広く日本に流布し、雄俊が娑婆に立ち返るというモティーフを唯一持っている真福寺蔵『往生浄土伝』(所謂「偽戒珠伝」)の雄俊像こそ、直実が直接にその説話に接して影響を受け、往生者の理想像としてイメージしたものであり、親鸞もまた「妄語」を使った類似の言説を残したことを勘案すれば、雄俊説話の提供する雄俊像及びその独特の言説の影響は、直実一人に留まるものではなく、専修念仏教団の中で「悪人」往生の典型的な人間像及び言説として知られていたと考えられる。(26)

また、上品上生往生に対する直実の強烈な希求が、娑婆への立ち帰り、即ち還相廻向を目的とすることは「誓願状」の文言より既に明白であるが、それは直実個人の特異な願望ではなく、元々は、善導の著作に由来し、鎌倉初期には法然が特に武士関係者に対して勧めていた法門であり、直実はその教えに沿った願望を素直に表白したに過ぎない。(27)

つまり、『往生浄土伝』の雄俊説話といい、還相廻向の法門といい、それらは直実のみが体験して吸収した個人的見聞であり得ず、法然自身が積極的に取り上げ広く唱導していた事柄なのであろう。
その意味で、「誓願状」の直実自筆が揺るぎないことは、法然の教義―――実際の唱導の場で発せられたであろう言説に含まれる教義―――の実態を知る上でも大きな意義を有すると思われる。なぜなら、法然面受の弟子である直実自筆の「誓願状」の内容と津戸三郎や北条政子・大胡太郎らに宛てた書状の内容とが、還相廻向的思想において同一性の高いものであるということは、こうした書簡類の言説、少なくとも還相廻向に言及するような言説が間違いなく法然自身によって実際に発せられたものと考えて全く矛盾がないことを意味し、『平家物語』の維盛入水譚に見られる専修念仏的唱導の言辞が実際に法然門下の間で説かれていたであろう言辞を反映したものである可能性を示唆するからである。(28)

従来、「誓願状」の思想については、『吾妻鑑』や『法然上人伝』(四十八巻伝)を初めとする様々な(虚実入り交じった)資料によって作り上げられ増幅され続けてきた既成の直実像との整合性を(意識的にせよ無意識にせよ)求めるあまり、「誓願状」を漠然とあるいは無批判に直実の個人的性格に結び付けてその特異性を強調する方向で解釈されてきたように思われる。

そうした既製品の直実像をひとまず置き、直実の自筆と認められる「誓願状」などの言説を一つ一つ読み解いてゆくことにより、むしろ法然教団における専修念仏思想の実態が浮かび上がってくると考えられる。今回は「誓願状」の前半しか検討できなかったが、その後半には「夢想」というこれもまた当時重要な宗教体験が主題となっており、更なる解明が期待されるのである。



 


 

 

註釈

番号説明
[1]

熊谷直実の行実については、『大日本史料』第四編之十に関係資料の収集があり、『鎌倉遺文』第3巻にも関係資料が所収されている。

[2]

「誓願状」が直実の自筆であることは、赤松俊秀氏『続鎌倉仏教の研究』(昭和41年 平楽寺書店)「熊谷直実の上品上生往生願について」や近藤善博氏「法然上人の書状と熊谷蓮生坊」━━清涼寺文書を中心に━━」『月間文化財』25号(昭和40年10月)で言及されており、近年、『吾妻鏡』と『法然上人絵伝』(48巻伝)との間に存在する直実の出家年次の相違について諸史料を再検討された林譲氏は、「七箇条制誡」(二尊院文書)や「蓮生念仏結縁状」(興善寺文書)など、伝残する直実自筆資料を比較考察され、改めて「誓願状」や「夢記」が直実自筆であることを確認されている。同氏「熊谷直実の出家と往生に関する史料について━━『吾妻鏡』史料批判の一事例━━」『東京大学史料編纂所研究紀要』第15号(2005年3月)参照。

[3]

「誓願状」の影印は、日本名跡叢刊五十七『源空消息 証空消息 熊谷直実誓願状 迎接曼荼羅由来』(1981年、二玄社)に収録。翻刻は同書及び前掲赤松氏論文に掲載されている。

[4]

一例を挙げれば、福田行慈「熊谷直実自筆誓願文について」『印度学仏教学研究』30-1 1981年12月)で、次のように述べられるがごとくである。なお、引用した福田氏の所論は、「吉水入門後の熊谷直実について」『大正大学大学院研究論集』七(昭和58年2月)でもほぼ同文で記されている。(傍線部は引用者による。)
執拗なまでに上品上生を願うのは、以前の自分のごとく悪業を積み重ねているすべての人々を救いたいという、直実の単純というか、素朴というか、そうした実に純粋なる気持ちが高じて、このような上品上生の立願にまで至ったものと思われる。(中略)阿弥陀如来や善導を妄語の罪にきせようとする程、強烈な発願をした直実の場合、やはり武士出身ということが大きく左右し、また、強情な面を持つ激しい性格もあいまって、こうした狂気ともいえる程の信仰が表面に打出ていったといえよう

[5]

金子大栄校註『歎異抄』(岩波文庫版)P43による。

[6]

梶村昇氏『熊谷直実│法然上人をめぐる関東武者(一)』(1991年、東方出版)P121では、「こうした論法が、当時、用いられていたのかも知れない。」とされるが、その理由については何も述べられていない。

[7]

『大正新修大蔵経』(以下、大正蔵)51巻P106中段。

[8]

大正蔵84巻P101下段。

[9]

十二世紀後半には成立していたであろう『今昔物語集』巻十七「東大寺ノ蔵満、依地蔵助得活語第十七」には次のような記述がある(新日本古典文学大系所収本に拠る)。東大寺の蔵満なる僧が雄俊説話を引き合いに出し、自身あたかも雄俊のごとき言辞を弄しているところ興味深い。

昔シ雄俊ト云シ者ハ極悪邪見ノ人也キ。然レドモ命終ル時、念仏ノ力ニ依テ、地獄ノ猛火忽ニ変ジテ、清涼ノ風吹テ、即チ仏ノ迎接ヲ預テ、極楽世界ニ往生スル事ヲ得テ、我レ念仏ヲ唱ヘ地蔵菩薩ノ悲願ヲ憑ム、豈ニ此レ空カラムヤ。若シ此ノ事不叶ズハ、三世ノ諸仏及ビ地蔵菩薩ノ大悲ノ誓願皆失ナムトスト。使等、此ヲ聞テ蔵満ヲ責メ問テ云ク、汝ヂ如此ク云ヘドモ、指セル証拠夭シト。蔵満、亦云ク、諸仏菩薩ノ誓願ハ本ヨリ虚妄夭シ。我レ若シ、此ノ言、遂ニ不叶ズハ、諸仏菩薩ノ真実不虚ノ誠ノ言、皆虚妄ノ説ト可成シト。

[10]

『浄土五祖伝』・『類聚浄土五祖伝』は『黒谷上人語灯録』巻九(大正蔵83)所収。

[11]

「登山状」は『拾遺黒谷上人語灯録』巻中(大正蔵83)、『法然上人絵伝』巻32に所収されており、両者は同文である。無住撰『雑談集』巻四(昭和48年 三弥井書店)P148所収のテキストは、これらを略抄したがごとき形をとる。

[12]

『塚本善隆著作集 日中仏教交渉史研究』第6巻(昭和49年、大東出版社)P222

[13]

源信仮託とされる『観心略要集』が真福寺蔵『往生浄土伝』を引用していることは末木文美士氏「『観心略要集』の撰者について『印度学仏教学』53(27-1、1978年12月)に指摘がある。

[14]

福田行慈氏は前掲注(4)の二つの論文で「〇天台の御釈に下之八品不可来生(智顗『維摩経広疏』)」とされるが、いずれにも典拠の本文は挙げられていない。この『維摩経広疏』とは、『卍続蔵経』二七巻から二八巻にかけて所収される智顗撰『維摩羅詰経文疏』全二十八巻のことと思われ、今回当該要文を検索したが、該当する経文は見当たらなかった。

[15]

智顗撰『維摩経広疏』と湛然の『維摩経広疏』は大正蔵三八巻所収。智顗撰『維摩経広疏』は前掲注(⒁)参照。智円の『維摩経略疏垂裕記』は大正蔵三八巻所収で当該部分は次の通りである。(傍線は引用者に拠る)。

但横竪異耳者二同居土横望餘二土名之爲>竪。若爾秖可娑婆而往於浄。何以従浄却生此那。答下之八品不可来生。上品上生。或可即能到彼土已獲通故来。法華云。是人自捨清浄業報。而来楽此多怒害処。唯常寂光文無往義(大正蔵38巻P721上段)。

[16]

大正蔵84巻P134下段。

[17]

『原点 日本仏教の思想』5巻P166(1991年、岩波書店)。

[18]

石井教道編『昭和新修法然上人全集』P529(昭和49年第二刷、平楽寺書店)。以下、『法然上人全集』と略す。

[19]

『法然上人全集』P503。

[20]

『法然上人全集』P526。

[21]

この他に還相回向言説として、次のような法然の法語が伝えられている。

答、これもろもろのひか事にて候。極楽へひとたひむまれ候ぬれは、なかくこの世にかへる事候はす。みなほとけになる事にて候也。たゝし、ひとをみちひかんためには、ことさらにかへる事も候。されとも生死にめくる人にては候はす。界をはなれ、極楽に往生するには、念仏にすきたる事は候はぬ也。よくよく御念仏候へき也。(「145箇条問答」『法然上人全集P652』。)
七分全得の事。仰のまゝに申げに候。さてこそ逆修はすることにて候へ。さ候へばの世をとふらひぬべき人の候はむ人も、それをたのまずして、われとはげみて念仏申ていそぎ極楽へまいりて、五通・三明をさとりて、六道・四生の衆生を利益し、父母師長の生所をたづねて、心のまゝにむかへとらんと、思べきにて候也。(『拾遺黒谷上人語灯集』下巻(大正蔵83巻P264下段)、48巻伝 巻23)

[22]

大正蔵37巻 P273 中段。

[23]

大正蔵47巻 P439 上段。

[24]

大正蔵47巻 P440 下段。

[25]

北原保雄・小川栄一両氏編『延慶本平家物語』本文篇下 P346 (平成2年 勉誠社)に拠る。延慶本は延慶年間(1308年-1310年)の書写にかかる原本を応永期に書写したものである。

[26]

かつて赤松俊秀氏は「直実の上品上生往生の立願が、極重悪人の自覚と反省を入信の第一歩とする浄土教とのそれとしては、異様な響きを持っていることは、改めて言うまでもない。」(前掲注(2)『続鎌倉仏教の研究』P298)とされたが、直実の「誓願状」に「異様な響き」があるとすれば、それは直実の立願の言辞が中国の雄俊説話の言葉を借り物として作られていることに起因するだろう。

[27]

丸山博正氏「法然の九品観と熊谷直実の上品上生往生立願」『三康文化研究会年報』一九(昭和62年3月)は法然の品位の増進の論理と熊谷の上品志向の同質・異質の結論も出しにくい。」とされるが、法然にしても直実にしても、「品位の増進」などが最終目的ではなく、念仏信仰の結果としての還相廻向を期すという点で、その意図するところは一致している。

[28]

そうした意味では、唐木順三氏の次の傍線部のような発言は法然浄土教の実態からかけ離れたものと云えよう(傍線部は引用者による。)

直実がしゃにむに上品上生をこそと願ったのは、荘厳はなやかな中で極楽往生することが目的ではなく、往生した後、再び極楽から還り来って、娑婆即ち現世の烏煙無縁の衆生が極楽へ往生する折の先導役をつとめることに在った。この点に蓮生の特色があり、それは極楽往生を眼目とする法然の専修念仏には欠けていたところではなかったかと私は思う。(『あづまみちのく』所収「熊谷直実入道」P54、昭和49年、中央公論者)。

(浄土宗西山深草派 宗学院教授)

 

 

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