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『楷定記研究序説』(其一)〔論文〕

[登録カテゴリー: 歴史学



田中 宗龍 (たなか そうりゅう)

【筆者】 田中 宗龍 (たなか そうりゅう)

 

1975年(昭和50年)兵庫県丹波に生まれる。
2004年(平成14年)佛教大学を卒業する。
2009年(平成19年)浄土宗西山深草派阿弥陀院住職に就任する。
2010年(平成20年)同派宗学院助手拝命。
西山派列祖の五部九巻の註釈書の翻刻を中心に研究しています。

 

 


 

 

『楷定記研究序説』(其一)著者:奥村玄祐(おくむらげんゆう)


緒言


平成二十六年春、愛知県岡﨑市岩津町にある真浄院(深草派)の蔵書を拝見する機会に恵まれました。当寺の蔵書は、先代住職奥村玄祐師の蒐集によるものと思われます。師は、当派において、昭和期を代表する学僧であり、殊に記主顕意上人・『揩定記』研究の権威として、その主著『和字揩定記』はその集大成となるものです。また、深草の真宗院や三河の檀林の沿革にも造詣が深く、深草派教理史においても大家であったことが、その著書から窺われます。更には、勧学として長きにわたり後進の教導に当られ、幾人もの硯学を輩出されました。


左様の師の蔵書でありますから、西山義のみならず仏教全般に通じて、宗宝たりえる書籍が散見されました。そんな中、未発表と思われる直筆の研究論文がありました。師の未発表の遺稿に見える眼福に加へ、ご子息の奥村道男師の同意を得て、この貴重な研究を世に送り、諸賢の慧眼に及ぶこと、末流を掬む者にして、法悦に堪えません。


以下にその翻刻を記載し、師恩に報いたい所存であります。



凡例


  • 奥村玄祐師著『楷定記研究序説』(其一)を翻刻する。
  • 本文は、適宜、改行を行い、句読点、中点(並列点)を加えた。仮名の表記は平仮名に、仮名遣い及び動詞・助動詞の活用は現代語に改めた。また濁音符・半濁音符も補った。
  • 漢字は通行の字体に改めた。例外として固有名詞は残した。
  • くずし字、異体字は通行の字体に改めた。不読・難読文字は■印を付した。
  • 引用文は、原典にあたって読み下しにした。
  • 明らかな誤記については、これを訂正した。
  • 書名は『 』、引用等は「 」の括弧で括った。
  • 文中の年代表記を皇紀から西暦に改めた。




研究報告論文(1)昭和六年


『楷定記研究序説』(其一) 研究生 奥村 玄祐


目次


  •  記主顕意道教上人行実略考
  • 『楷定記』の撰述とその流布刊行史
  • 『楷定記』研究史の考察と研究書の研究(末註鈔の研究)


記主顕意道教上人行実略考


日本仏教史家として最も見識の高かった示観国師凝然大徳は、その著『浄土源流章』において、法然門下の伝通を論ずる條下において、我が楷定記主顕意道教上人について次の如く記している。


「洛陽西山の證空大徳《道号は善恵》門人甚多し。並に随て法を学ぶ。乃ち證入大徳《房号は観鏡》・観眞大徳・實信大徳・聖達大徳《鎮西》・證慧大徳《房号は道観》・修観大徳・浄音大徳・道門大徳・隆信大徳・佛教大徳・遊観大徳等也。《乃至》

隆信公の下に道教公有り。浄教を研窮し講敷伝通す。嵯峨に居住し浄教を弘布す。義路精詳にして甚だ嘉美を播こす。道教上人釈迦院に住し、所承の義を弘む。隆信公に稟ほどうけて宗旨を開暢す。西山義と名く。」


この『浄土源流章』一巻は応長二年(1311)冬12月29日、凝然が既に七十有二歳の老境に入って、奈良東大寺戒壇院において認(したた)めたもので、丁度記主顕意上人の示寂後僅かに八年をすぎた時であるから、最も信頼することができるものである。果して凝然が顕意上人と交際面識があったか否かは直ちに速断することはできぬが、彼が記主上人の名声を聞いていたことは勿論疑うことはできない。しかし、これだけでは甚だ簡単であるが、これを始めとして記主顕意上人の行実を記したものも残っていないこともない。今『楷定記』の研究に入るに先立って、これが作者である、所謂(いわゆる)記主の行実を考えて見ることは、『楷定記』の全体を知る上から決して徒労ではなかろう。まとまった伝記(第一史料)としては、


  1. 『釋顕意伝』一巻(『観経疏揩定記』寛文版付録)作者未詳、上人滅後三六〇年
  2. 『城州釈迦院沙門顕意伝』一巻(『本朝高僧伝』巻十六)師蛮の作、元録十五年(1708)上人滅後三九八年
  3. 『記主竹林顕意道教大和尚伝』(略称『竹林伝』誤字考付録)淘空俊粹作、寛政十二年(1800)上人滅後四九五年

の三種を列挙することができるが、この他梗概を摘出記載したものの部としては、


  1. 吉水法流記(堯惠作)
  2. 法水分流記(静見作)
  3. 宗派流伝
  4. 浄土伝灯総系譜(巻下)
  5. 浄土承継譜
  6. 東国高僧伝(第十)
  7. 新撰往生伝(第三)
  8. 浄土宗西山流大血脈
  9. 雍州ようしゅう府志(第十)
  10. 佛教大辞彙
  11. 日本佛家人名辞書
  12. 深草史
  13. 矢石しじゃく
  14. 佛教信仰実話全集

等がある。これ等の第一史料の中、最も問題とすべきは、『楷定記』(寛文版)の末に後序として附せられている『釋顕意伝』一巻である。『楷定記』は後に論ずるが如く、顕意上人が生涯の心血を流して大成せられた実に膨大なる聖典であるが、その末後をかざるものといふべき、この伝記の作者の名の見えていないことである。これは果して何人の作であるか、全く不明であるが、ここに一考すべきは『観経疏誤字考』の凡例に見えている次の一文である。


「抑又、振古、記主の伝を作んや。爰に止に二三ならん。而して今上梓して、世に行はたまたるは特り後陽成上皇嘗て賜ふ所の御製の伝と《原本の末に附する者是れ也。記主の自序も亦、仙毫を灑て所写し共に三州法蔵寺の宝庫に秘す也》及び源流章に載せる者と、僅にこの二編有るのみ。」

ここに割註に原本といへるは明らかではないが、恐らく『楷定記』を指すものではないかと思われる。もし然りとすれば、その附録たる伝記は後陽成上皇(人皇百六代、1586~1611)の御宸作と思われる


しかし、この問題は尚他の研究史料の方面の研究を待つ所があるから、この問題を問題として提起しておくにとどめ、他日に譲らねばならぬ。この外、凡例(『楷定記誤字考』)には、「記主年譜」の存したことが認められるが、今は伝っていないようである。如上の史料だけでは尚不充分であるが、これ等のものを綜合して、記主顕意上人の一生を考えて見ると、決して恵まれた一生ではなかった。涙と苦労の一生であったと一言にしていうことができる。


記主上人の生年月日については種々の説があげられているが、そのうち暦仁元年(1238)説と仁治元年説(1240)が最も多数を占めている。この問題は容易に片付かぬ問題であるが、これと共に困難な問題は上人示寂の年代考である。嘉元元年(1303)説、嘉元二年説(1304)とが多いが、中には乾元元年(1302)説までとなえられている。従って上人の世寿に関しても六十六歳説、六十七歳説、及び六十五歳説等がある。これ等の年代に関する問題を一々考証して行くと極めて繁雑に流れる恐れがあるから、今は余の研究の結果を概括して、これを論述して見よう。


余は数年前、上人の行実を尋ねて、示寂の年月を確かめるために上人の墓面の拓本を取ったことがあるが(真宗院山、記主堂の墓)、これに依ると、「道教顕意上人嘉元元癸卯年五月十九日」と見えているから、明かに上人の示寂は嘉元元年説を取るべきである。上人の法孫にあたる静見の記した『法水分流記』や淘空俊粹の『竹林伝』等はこの説が用いられているが、行空勤超の『矢石鈔』や大光演冏の『先聞録』等は嘉元二年説を取っている。従って上人の世寿を六十六歳とする時は、その生年は暦仁元年、六十七歳とする時は、前年の嘉禎三年(1237)を取らなければならぬが、この生年考を論じている人は未だ一人もない。六十五歳とすると一年後の延応(1239)をとるべきであるが、この説を唱えている者も見当たらない。古来六十七歳を唱えているものは何れもその示寂を嘉元二年としているためである。されば、現在のところ生年は暦仁元年説を取るべきであろう。その月日についてはこれも明らかに記したものは見当たらぬが、只陶空俊粹の『竹林伝』のみ「七月某日、勉身して雄挙」と叙しているが、これが何に依ったか明かではない。


その俗姓については、『竹林伝』、『矢石鈔』等には、等しく父は薩州島津の刺史醫集院ししいじゆい氏、母は■紳家の女と記しているが、醫集院というについて、『矢石鈔』は更に「或云、父即薩州太守島津主也。国を以て、長子付属し、入道して醫集院号す」と割註をしている。もしこの記事を信ずるならば、当時の島津の太守が世を遁れて後、生れたのが顕意上人であることになる。尚ほ、顕意上人が二歳の時、この父が世を去ってしまったので、母は容飾を落して佛門に入った。


顕意が十四歳の時、母は携えて筑紫太宰府の正覺寺に聖達の門をたたいて顕意の一生を託しようだしたという。聖達は西山国師門下の一人で『浄土源流章』には、国師門下大徳の一人として数えているから、当時既に名声が高かったことが知られる。その室からは時宗の開祖一遍や聖観、聖戒(一には契に作る)、仙阿等の人々が輩出しているから注意すべき人物といわなければならぬ。聖達の事跡に関してはまだ充分研究はなされていないが、『矢石鈔』に依ると、「聖達は醫集院と一族たり」と記しているから。或は顕意の母は醫集院と死別して後、一族関係から顕意を聖達に托したものではないかと察っせられる。


『矢石鈔』や『竹林伝』には顕意の母は彼を聖達に托するようになってから、聖達と通じて、二男(兄を賢海、弟を賢悟)二女(姉を不断光、妹を無辺光)を挙げたことがみえあているが、二男は共に顕意の弟子となったことの見えることは注意すべきである。『竹林伝』の作者淘空は、「道暠按ずるに、この説全く信用し難し、乃至伝會之説也」と論述してこれを否認しているが、静見の法水分流記には顕意上人一門の譜の最後に、


としるされているのと併せ考えて見ると、この伝説は信ずる余裕がある。二女も同じく佛門に帰入して浄土曼陀羅を浄写して、世に伝えたと記されているが、一考する価値があろう。同じ法然門下においても、親鸞が肉食妻帯を標榜して、殆ど世俗と異らぬ生活をした事実と考え合せて見る時、親鸞は関東において、聖達は関西鎮西において、当時としては世人の目をそばだたしめる生活をしたように思はれることは注意すべきである。


聖達は顕意の幼敏なるを見てこれに意をかけて教育し、剃髪せしめて聖恵(『東國僧伝』には證恵と記す)と名けた。顕意はここにとどまること四年にして、華洛に上り、当時深草真宗院にあった円空立信上人の門に入り、始めて受戒して、聖恵を顕意と改めるに至った。円空立信上人は西山国師写瓶の弟子にして、学徳の誉れ高く名声既に聞えていたから顕意がその門を叩くに至ったのも、これに因るものではなかろうか。或は聖達の指示があったのではないかと察せられる。聖達と円空とは同門同学の友として親交があったことも察するに難くなく、聖達は顕意の学才をおしみて円空のもとへ送ったのであろう。時に丁度西山国師滅後八年、円空立信上人四十三歳のことであった。



顕意が立信の教をうけて、これを宣揚することに努力したことはいうまでもないが、この代表的行実としては、顕意が五十八歳、即ち伏見天皇の永仁三年(1295)十一月、亀山上皇の院宣を奉じて仙洞御所において、東山義漸空了観と三心に関する五通


  • 以至誠心為専修事
  • 以本願至心等配観経三心事
  • 至誠心捨自力帰他力事
  • 以信心為三心体事
  • 本願三心信心即具事

について、大に討論義したことである。この場合の始終は綴られて『仙洞三心義問答記』(或は『勅三心問答記』という)、或は単に『三心問答記』となって伝えられている。寛文版の『楷定記』末の顕意伝には、「弘安九年、仙洞に於て顕空法師と三心之義を論ず。乃問答鈔一巻を述す」と記されており、『矢石鈔』・『竹林伝』にもこのままこの説が引用せられているが、これは大なる誤りである。顕空とあるについて『竹林伝』の著者は、「顕空と曰ふ伝者誤なり」と破しているからこれについて考証する必要はない。(「『勅三心問答記』宗学研究に対する基礎学的一部門としての記主顕意道教上人の述作に関する書史学的雑考」、参考)


顕意道教上人の学に関する行実については、これを物語るものは実にその述作に他ならないものである。その一々は思想を物語ると共に、又一面行実を示している。余は先年これ等の述作について、書史学的にこれを研究して一論文を草したことがあるが、その一々についてこれを論ずることは繁雑に流るるから、今は只その書名のみを列挙しておくにとどめておく。


  1. 観経疏楷定記   三十六巻 刊本
  2. 曼陀羅見聞    十巻   写本
  3. 浄土疑端     四巻   刊本
  4. 浄土宗要     三巻   刊本
  5. 浄土竹林鈔    二巻   刊本
  6. 研覈鈔      一巻   写本
  7. 註五方便念佛門  一巻   刊本
  8. 浄土宗建立私記  一巻   刊本
  9. 勅三心問答記   一巻   刊本
  10. 観経四品知識義  一巻   刊本
  11. 四十八問答    一巻   刊本
  12. 難易二道血脉圖論 一巻   刊本
  13. 一乗海義要决   一巻   刊本
  14. 口筆の法語    一紙   刊
  15. 浄土宗肝心    一紙   刊
  16. 二河白道義    一紙   刊
  17. 三心肝要     一紙   刊
  18. 三心義      一紙   刊

以上十八部六十八巻の多数を数えることができるが、この他に上人は又歌情にも豊かであったことが、『新後撰和歌集』(巻第十八雑歌部)に一首見えていることによって伺はる。


山家の心を
今はよし浮世のさがとしりぬれば
又こと山は宿は求めじ

記主顕意上人の寺門の経営経済的方面に関する行実に関してはこれが研究的余地は充分残されているがこれについては後日にまつとする。顕意上人の学徳を慕ふて集まった門人はかなり多い。『法水分流記』には、経空良恵、尭空道意、凝空寿覚及び戒圓、蓮智、良圓、是仁、道證、智海、賢戒、賢悟の十一師を挙げ、同門の輩であった彰空阿日、証佛、公海、真空如円、本空教観、南阿照道、玄智、良戒、発心、明戒、法恵、道一、那阿、玄照、法心の十六師が立信上人の滅後は悉く顕意上人の門下に附属したことは、真に顕意まこと上人の人格徳化の一面を力強く知るに足るものというべきである。


就中、尭空道意の門葉からは暢空頓乗(1271~1362)、尭恵善偉(1325~1395)、宏山龍藝(1361~1439)、教然良頓(1394~1464)等相次いで多士才々が輩出して、遂に今日の深草一流あるの堅実なる基礎を築き上げるに至ったことは深草発展史上見逃すことのできないことである。


(つづく)







 

 

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