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遣迎院の胎内文書交名帖から見た原平家物語成立史

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熊谷かおり (くまがい かおり)

【筆者】 熊谷かおり (くまがい かおり)

 

京都市在住。京都鳩居堂十代目の孫娘。熊谷直実三十一代末裔。ヤマハポプコン入賞より、音楽家・DJとして活躍。音楽教室でピアノ・ボーカルを指導。「マイミュージカルカンパニー」主宰。作・音楽・演出・主演の市民参加型ミュージカルを公演。熊谷直実・蓮生法師の事跡を追う研究・論文を発表。平成19年、西山浄土宗総本山光明寺・蓮生法師八百回忌法要においてピアノ弾き語り舞台を務める。浄土宗総本山知恩院の暁天講座、セミナーでの講演、執筆活動など幅広く活躍。

 

 


 

 

遣迎院の胎内文書交名帖から見た原平家物語成立史

熊谷 かおり (平成30年3月24日)



はじめに


私は熊谷直実の子孫として、平家物語に登場する熊谷直実の描写に関心を持ち、その言動と行実を研究してきました。そして水原一氏の著書『平家物語の形成』において論じられた「熊谷説話の形成」を読んで、その主旨に強く共感し賛同しました。


水原氏は『延慶本平家物語』が、熊谷直実の立場から直実の視野で全体を語っていることを綿密に論証されました。すなわち直実自身が経験談として、語ったものが『延慶本平家物語』に記された「熊谷説話」であると論じられたのです。


熊谷直実は建久四年に法然上人の弟子となり、建久五年に鷹峯遣迎院阿弥陀如来像胎内交名帖に名を記しています。私は遣迎院交名帖を更にくわしく研究しました。


その結果、『原平家物語』の成立にかかわったとされている「深賢」および「頼舜」と「生仏」という三名の僧がその交名帖に名を記していることを発見したのです。


この第一級の史料である遣迎院阿弥陀如来像胎内文書の交名帖の存在を知っている平家物語研究者も、「深賢」および「僧頼舜」と「沙弥生仏」の三名の名が記入されていることを知らないようです。


そこで私は平家物語成立史の研究者ではありませんが、初歩的な検討を行って、専門家の関心を喚起したいと思います。



本  論


麻原美子氏の論文「平家物語の形成と真言圏」(平家物語の成立 あなたが読む平家物語1 栃木孝惟 編 有精堂1993年)を引用する。




一 真言圏の特徴


真言圏が『平家物語』の形成(受容からの創造)にどのようにかかわっていったのかという視座から考察を進めたいと思う。



(中略)
真言世界に『平家物語』を対置させてみるとき、まさに『平家物語』は真言の曼荼羅的世界さながらに、文芸性の面でも中世思想の面でも何もかも包摂して、中世的世界を現出させている。
(中略)



ともかくも『平家物語』は真言圏で形成されたことにより、真言的世界の論理、思考の影響を受けて今日見る姿になったのではないかと私は考えるのであり、以下この仮説を立証すべく考察を進めたい。




二 高野圏の延慶本平家物語


真言圏に確実に『平家物語』が存在したことを証明する証拠は二つある。一つは延慶本平家物語であり、一つは醍醐寺の深賢書状である。まず延慶本であるが、延慶年間(1309~1310)と応永年間(1419~1420)の書写を示す二つの奥書がある。



(中略)
いずれにしても延慶年間から応永年間までの百年以上の歳月にわたって、根来寺の管理下に置かれていたことは確実である。従って現延慶本は根来寺本でもある。

転写本であるからにはその粉本となった原延慶本があった筈で、どのような経緯で根来寺で書写されたのか気になるところである。
(中略)


(そもそも)根来寺は、高野山伝法院の覚鑁が金剛峯寺方との軋轢によって生じた争論に休止符を打つために高野を退去し、伝法院の大日如来を根来山に移して、鳥羽院の御願寺として建立した寺である。真言宗寺院としての歩みは覚鑁没年の保延6年(1143)から始まったために寺院としての歴史は浅いが、根来教学は高野の伝法院の教学をそのまま移し植えたものである。覚鑁については櫛田良洪氏が『覚鑁の研究』で詳細に論究されており、それによると真言密教に念仏を導入し、即身成仏を弥陀即大日とする独自の教義を立てていることが明らかにされている。継承者は仏厳、頼瑜が著名で、伝法院教団を形成し、新義真言として高野からの独立路線を歩み始める。


麻原美子氏は続けて以下のよう論じられた。




三 深賢書状の「平家物語」


次に真言圏に『平家物語』が存在したことを示すもう一つの資料、「深賢書状」について考えてみたい。これは横井清氏が発見されたもので、昭和49年12月『文学』誌上に「平家物語成立の |考察| 八帖本の存在を示す一史料」として発表され、学会に一大衝撃を与えたものである。京都の永観文庫所蔵の醍醐寺の僧親尊の筆写になる『普賢延命鈔』の紙背文書で、今日は剥離されて「深賢書状」と命名されて軸装されている由であるが、醍醐寺地蔵院の僧深賢の書状で次のような文面である。



改年御吉慶等誠申籠候了。自他幸甚々々。蒙仰候平家物語合八帖(本六帖後二帖)献借候。後書候事は散々なる様にて人の可御覧躰物にも不候歟。雖然随仰献覧之候。古反古共見苦物候。御覧後早可返預候也。事々期拝謁候。恐々謹言


この書状の発信時であるが、『普賢延命鈔』の奥書に「正元元年九月之比於上醍醐覚洞院抄之更不可他見耳。金剛仏子親尊(生年廿四)」とあるので、正元元年(1259)9月以前となる。文面は以前から閲覧のご希望のあった「平家物語合八帖(本六帖後二帖)」をお見せすること、後二帖分は散々なもので、ご覧になれるようなものではないが仰せによってお目にかけること、古反古の見苦しいものだからご覧になったらすぐ返して欲しい、といった趣旨がしるされている。ここで注目されるのは、後二帖の後書の内容と形態に対して強い羞恥心をもって、お見せできるものではないが強いご希望でお目にかけるとわざわざ断っており、多くの人目に触れることを極度に恐れて返却の督促をしている部分である。ここから推測すると後書は深賢自身が関与した作物ではないかとさえ思える。


ただ『平家物語』の成立過程を示すもう一つの重要な資料である東山文庫蔵定家書写『兵範記』の紙背文書の、定家当宛消息に記されている記事を照らし合わせることによって、かなりの程度まで実態に迫ることができる。この紙背文書を発見紹介したのは山田孝雄氏であるが、その後、再調査をして検討されたのは辻彦三郎氏と赤松俊秀氏である。その文書の関連部分のみをあげると、


 [1] 六巻跪返給候了。謬説等誠難信受候。就中有本紀事ハ皆以て僻事候。
 [2] 治承物語六巻(号平家)此間書写候也。未出来者可入見参之由存候。
  (略)  〔頼舜〕恐惶謹言
 [3] 保元以後□□治承記六事、雖一帋一局必被面拝見候也


というもので、[1][2]の消息類は後半に年号勘文に触れており、仁治改元直前の延応二年(1240)頃にしたためられたものとみられている。[2]の消息末尾にかすかに残った頼舜について、(中略)冨倉徳次郎氏は園城寺僧とされた。冨倉氏はこの六巻の治承物語について、治承年間の事件を主とした清盛一代記的なもので、十二巻の前半にあたり現行形態とは異なるとされた。水原氏も冨倉説とほぼ同一見解で、治承という題号に留意すべきで、「号平家」を『平家物語』と等記号で結ぶ必要はないとの見解を示された。


一往私の見解を示すと、「治承物語」という書名から歴代史的性格がうかがえること、「有本紀事」という記述部分と鏡物の藤氏物語に相当する平氏物語の記事群があったと推定されること、従って清盛物語的なものではなく、[1]の消息でいう「本紀」という内容で推測できる後白河、二条、六条、高倉、安徳、の歴代天皇の歴史事象を中心にして編まれたもので、『愚管抄』の記述に類似したものであること、そこには末法思想に基づいた時代認識が底流をなし、末法的政治社会状況が把えられ、部門権力の対立抗争が記されていたものと推測できる。


[3] の消息からは治承物語は未完成の編集途次にあるもので、諸方に依頼して保元・平治・治承にわたる記録の蒐集作業がされていることがうかがえるのである。この六巻の「治承物語」を深賢書状の「平家物語本六帖」に連接させて考えてみると、両者間の構造上の差は書名が「治承物語」から「平家物語」になったことで明らかなように、本紀部分と平氏物語部分に対して内容的整備が加えられ(「本六帖」は「本紀」ではなく本体の意で、「後二帖」に対する語である)、現形態により一層近づいたものとなり、後鳥羽天皇時代に入った覇権の推移をも見据えたものであったろうかと推測するのである。


従って現存本の七巻以降に見られる合戦譚はまだ源平の勝敗を記述する程度で、武勲譚的な内容のふくらみはなく、また平家一門に関する記述も記録の域を出ない簡略なものであり、関連説話などは殆ど持たないものであったかと考えるのである。


「治承物語」が「平家物語」にと変貌するのは、何よりも現『平家物語』にある平家一門の都落関係記事、平家公達の最期の記事が大幅に増補された段階からであり、治承物語六巻は丁度そうした動きの始発であったかと考えられる。こうした平家関係記事の蒐集の一方で、やはり時の政治権力者の源氏関係記事の蒐集がなされ、「深賢書状」にうかがえる「平家物語」はそうした段階の形成期に入った形態のものではなかったかと考える。そして「治承物語」段階を原態「平家」と仮に呼ぶことが許されるならば、これこそ天台圏の慈円周辺が有力な場ではなかったかと推測するのである。


即ち私は『平家物語』の成立に関して原態本は天台圏で著述され、これがあるルートを通じて真言圏に入り、醍醐寺教団で管理されて、現形態に形成されていったのではないかと大よその経緯をかんがえているのである(傍線、熊谷)。従って延慶本をめぐって、それぞれの教団に特徴的な部分を把えて論ずれば、天台圏成立説の対立的な成立説が生まれるのは当然のことではないかと判ずるのである。


ここで重要なのは、天台圏的要素、真言的要素が重層的に積み重ねられていく過程を考慮することであり、こうした視点でこそ形成問題を考えるべきではなかろうかと思うのである。


(中略)
水原氏は本六帖は延慶本でいえば「本」冊の旧態六巻で、「後二帖」はこの旧態六巻が肥大化しようとする初期的姿とされ、「平家」と号して掻き集められつつあった各種各様の素材文で、未整理状態のものであり、「古反故」の集められた帖冊で、やがて編年体に分類され本六帖の間間に配置され調った作品となるとされる。
(中略)


水原氏は一往首尾の整った六巻本を想定されているといえる。このように『平家物語』の初期形態が現形態になるまで、どのような経過をたどったのかということは、すべて蓋然性の論議となるわけで、成立の構想をどのように描くかという基本問題にかかわり、容易に正解を見出しがたいのが実情である(傍線、熊谷)。


以上、麻原美子氏の論考を抜粋引用した。多くの平家物語研究者の論考を理解し、批判的に検討することは、専門研究者でない人にとっては困難である。しかし、新しい一次史料を発見した人は、非専門家でも新見解を展開できるであろう。




四 深賢の調査


筆者(熊谷)は最初に「深賢」に就いて論じる。


遣迎院胎内文書交名帖の(【2】2)紙の第4行目の一番上の段に、「深賢」が見出される。この「深賢」が『普賢延命鈔』の紙背文書の醍醐寺地蔵院の僧・深賢と同じ「深賢」か調査する。


a 年代について
深賢は歌人藤原家隆と従兄弟同士である。(系図参照)従って『新古今集』の撰者としての藤原定家とも同じ世代である。藤原定家書写『兵範記』の紙背文書の定家当宛消息に記されている記事が原『平家物語』の成立と深い関係にあることは当然のことになる。


b 出自と地位について
深賢は三宝院初代門跡勝覚の弟子成賢の弟子である(浅原美子「平家物語の形成と真言圏」179ページ参照)。


また、系図に示すように、深賢は隆寛および隆胤と共に仁和寺の僧であり、光隆の甥たちである。つまり「真言圏」に属している。そしてこの光隆は延慶本平家物語に猫間中納言として登場する。


『延慶本平家物語』(本文篇下 北原保雄、小川栄一編 勉誠出版145頁)に「木曽京都ニテ頑ナル振舞スル事」という段がある。光隆は木曽義仲が京都に進駐すると、すぐさま義仲に面会して、藤原忠通の所領である阿努庄(あぬのしよう)に関する係争を有利にしてもらおうとしたが失敗した。


さらに光隆の子息・家隆は藤原定家と共に『新古今集』の撰者であった。


平家を壇ノ浦に滅ぼした源頼朝は、文治元年(1185)12月6日、後白河院に猫間中納言藤原光隆を越中守に任命し、内大臣藤原実定を越前守にせよと人事介入した。すなわち、頼朝は九条兼実を後援すると共に藤原光隆を優遇した。このことから平家物語が源頼朝と九条兼実が権力を掌握した時期に仁和寺僧すなわち「真言圏」と法然を棟梁とする専修念仏聖によって創成されたことが分かる。場所は法性寺、時は建久五年(1194)である。




五 頼舜の調査


次に遣迎院交名帖の(【7】2)紙の第18行の上から4段目に「僧賴舜」がある。


a 年代について
頼舜書状は延応二年(1240)頃にしたためられた。一方、遣迎院胎内文書交名帖は建久五年(1194)に成立した。両文書の成立年代の差は四六年である。 仮に頼舜が二〇歳で建久五年の遣迎院胎内文書交名帖に結縁したとすると、延応二年に書状をしたためた時、彼は六六歳になっていた。また、頼舜が三〇歳で結縁したとすると、書状をしたためた時は七六歳となる。だから、一人の生涯期間の行実として差し支えはない。


b 出自と地位について
 頼舜は『尊卑分脉』第二篇「良門孫」52ページに、「仁和寺法印頼舜」と記されている人物である(系図参照)。頼舜の父である「仁和寺法眼頼尋」の従兄弟に「上西門院蔵人仲義」がいる。上西門院の生涯は西暦1126年から1189年であるから仲義の従兄弟の子息である頼舜は一世代30年後の1220年頃に生存していたであろう。頼舜消息は延応二年(1240)頃にしたためられたのであるから、『尊卑分脉』の頼舜と同一人物といえる。


また、雅正から数えて九代目に家隆がいて、頼舜は雅正から数えて同じく九代目に当たる。家隆は嘉禎三年(1237)に死去した。頼舜書状は延応二年(1240)頃にしたためられた。従って建久五年(1194)に成立した遣迎院交名帖の「僧賴舜」と『尊卑分脉』の「仁和寺法印頼舜」は同一人物であるといえよう。




六 『徒然草』二二六段


平野さつき氏は『平家物語の成立 あなたが読む平家物語1』(栃木孝惟 編 有精堂1993年)において、論文「平家物語と作者伝承」を掲載された。その「(一)『徒然草』二二六段の示すもの」において、以下に抜粋要約するように、論じられた。(引用文献の傍線は筆者熊谷が付けた)



昭和三十四年の岩波の「日本古典文学大系」および平成三年の「新日本古典文学大系」においても、平家物語の作者解説に関しては『徒然草』二二六段の伝承を中心に据えるという基本姿勢は同じである。(中略)もちろん、昭和四十九年に横井清によって紹介された『普賢延命鈔』の紙背文書である醍醐寺僧深賢の書状とか、山田孝雄以来注目されている東山御文庫蔵『兵範記』の紙背文書である園城寺僧頼舜の書状とか、十三世紀半ば以前の『平家物語』らしきものの存在を示す史料がないわけではない。しかし、これらは『平家物語』の作者や成立事情については何も言及していないのである。

結局、いつ・誰が・どういう目的でということを具体的にのべている史料の中で最も古いものといえば、元徳二年(1330)ごろ成立したと言われる『徒然草』二二六段になるのである。そこで、本稿でもまずはこの二二六段の検討から入っていくことにする。



そして平野さつき氏は『徒然草』二二六段を引用した上で、詳細に問題点を論じられた。ここで、『徒然草』二二六段を引用する。



後鳥羽院御時、信濃前司行長、稽古の誉れ有けるが、楽府の御論義の番に召されて、七徳舞を二つを忘れたりければ、五徳の冠者と異名を付きにけるを心憂きことにして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば下部までも召し置きて、不便にせさせ給ければ、此信濃入道を扶持し給けり。


この行長入道、平家の物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて、語らせけり。さて、山門のことをことにゆゝしく書けり。九郎判官のことは詳しく知りて、書き載せたり。蒲の冠者の方はよく知らざりけるにや、多くのことども記し洩らせり。武士のこと、弓馬の業は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて、書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。



筆者は今回の論文では、平野さつき氏が取り上げられた論点の中で、『遣迎院交名帖』と関連する論点だけを取り上げることにする。それは左に掲げた三つの問題である。



A「生仏と琵琶法師との関連もよくわからない。少なくとも『徒然草』の記述だけからは、生仏が琵琶を演奏したのかどうか決定できないという松尾葦江の指摘は注意しておく必要があるだろう(220ページ)。

B 資料提供者=東国出身者(=生仏)広域な資料収集の具体的手段を持った人物。特に執筆者の知識を補完できる人脈を持つ人物(221ページ)。

C 語り物への契機をつくる人物(=生仏)琵琶法師と何らかの関係を持ち、後の芸能としての流布の礎をつくれる人物(221ページ)。



平野さつき氏は上に引用したように、「生仏」という人物に注目しておられる。この「生仏」という名は『遣迎院交名帖』の(【2】2)の16行目、上から7段目に「沙弥生仏」と記されている。同じ(【2】2)の4行に「深賢」がある


『遣迎院交名帖』の「沙弥生仏」は建久五年(1194)に成立した法然の『師秀説草』に結縁したから、法然の信者として九条兼実にも繋がりが強い人物である。「沙弥生仏」の沙弥とは、一人前の比丘となる以前の徒弟僧をいう。


中村元著『仏教語大辞典』東京書籍を見ると、「十戒を受けた七歳以上二〇歳未満の男子」とある。しかし、大野晋、佐竹昭広、前田金五郎編『岩波古語辞典』を見ると、「出家の男子で、まだ比丘にならぬ者」監修金田一京助、編者代表金田一春彦『新明解古語辞典』では、「仏門にはいって、剃髪し、十戒を受けてから比丘となるまでの男子の僧」とあるからインド等と違って、わが国では年齢にこだわらないようである。


そこで『鎌倉遺文』を検索すると、下記の文献が見つかる。



○七二九七  六波羅御教書案(○調所氏家譜)
大隅国在庁生佛・恒久
可任先例由事、国司外     
建長三年二月廿五
税所兵衛太郎殿 鎌倉遺文古文書編第十巻二三二ページ


この史料は調所(ずしょ)氏の家譜である。文書が破損しているのでよく理解できないけれども、建長三年(1251)2月25日に、大隅国の在庁の生仏と恒久が先例よって任命されたことがわかる。宛先は兵衛の税所(さいしょ)太郎である。兵衛は天皇の行幸のときに供奉する。盛岡浩氏著『日本名字家系大事典』(2002年東京堂出版)によると、「調所ずしょ 職業姓。在庁官人の職で、調の徴収などにあたった。大隅国発祥の調所氏が著名。藤原氏。云々」とある。調所は「ちょうしょ」あるいは「ずしょ」という。平安時代、国司の役所で役人が貢ぎ物(調)を取り扱った。それが家名になったのである。


税所(さいしょ)『日本名字家系大事典』を見ると、「税所は平安時代に国司のもとで租税の官吏を行った役所で、ここの在庁官人を世襲した一族が税所を姓とした。なかでも常陸の税所氏大隅の税所氏がよく知られる。」


要するに、調所氏も税所氏も平安時代から土着した在庁官人が鎌倉時代に御家人になっていたのである。


○二〇二六二  家綱・光忠連署下(○禰寝文書)
大隅国桑東郷武安名内籠作東迫事、佐多彌四郎親治与平山肥前幷生佛代朝盛、以和与、相互可知行之由申候、先日被申成関東御教書之間、聊非無子細、可被申否、不日、可被弁申候、仍執達如件、
  正安元年10月14日          家綱
                      光忠
  佐多孫九郎殿代
鎌倉遺文古文書編第二十七巻十八ページ


鎌倉遺文○七二九七は「大隅国在庁生佛」が建長三年(1251)に鎌倉幕府の六波羅探題に指揮されていたことを示している。この時、生仏が生きていたこが分かる。したがって、平野さつき氏が提示した三つの条件A、B、CのうちのAとBを満たしている。


また、鎌倉遺文○二〇二六二は正安元年(1299)に成立した。


この文書は大隅国の佐多彌四郎親治と平山肥前幷生佛代朝盛が和解せよと家綱・光忠連署が命じたことを示している。生佛代朝盛とは生仏の後継者が朝盛であることを意味するから、年代的に整合しているといえよう。


さて次に、平野さつき氏が提出されたCの条件、すなわち「生仏が琵琶法師と何らかの関係を持ち、後の芸能としての流布の礎をつくれる人物」という条件が満たされるか検討してみよう。


兵藤裕己氏は著書『琵琶法師----〈異界〉を語る人びと』(岩波新書1184/2009年)において、琵琶法師を論考された。


筆者は兵藤氏の著書から、平野さつき氏が提出されたCの条件に関連する論述を抜粋することによって、問題を解決したい。


最初に琵琶法師が現れたのは何時かという問題である。兵藤氏は下記のように説かれた。


唐の道宣撰『続高僧伝』第六によれば、六朝時代に、釈真玉という盲目の僧が琵琶を弾いて説教を行い、多くの帰依者をあつめたという。仏の教えを平易に説いたたとえ話や、いわれ・因縁の物語などを琵琶の伴奏で語ったのだが、田汝成(明の文人・政治家)の随筆『西湖遊覧志余』には、北宋時代からの「遺俗」(ふるい習俗)として、杭州の男女の瞽者(こしや) 、多く琵琶を学ぶ。古今の小説を平話に唱え、以て衣食をもと覓む。

とある。宋代から明代の江南地方では、男女の盲人が琵琶を弾いて、「古今の小説」を「平話」(俗語)で語りあるいていたらしい。



(中略)
盲人が琵琶を弾いて歌謡をうたい、稗(はい)史(正史ではない雑史)・小説(物語)のたぐいを語ることは、大陸では、はやくから行われていた。そのような盲人の琵琶演奏の習俗は、かれらが携行した琵琶とともに、大陸や半島からダイレクトに(京都中央を経由せずに)九州や中国地方に渡来したものだろう。
(中略)


大陸・半島から西日本へ直接渡来したとみられる琵琶法師の琵琶は、京都中央に遣唐使などの公式ルートで伝えられた雅楽琵琶とは、楽器の構造も、その奏法も大きくことなっていた。
(忠略)


雅楽琵琶にはない平家琵琶のそれらの構造的な特徴は、九州や中国地方西部に伝わった盲僧(座頭)琵琶、および盲僧琵琶を改良して作られた近世以後の薩摩琵琶、近代につくられた筑前琵琶などに共通するのである。


琵琶法師の琵琶の古形を伝えた絵画資料として注目されるのは、正安元年(1299)に成立した『一遍聖絵』である。(中略)琵琶の形状がわかるように描かれているのは、巻二の信濃国善光寺裏の場面と、巻六の相模国片瀬浜の場面である。どちらも師匠格琵琶法師と弟子の「子盲目」の二人づれであり、師匠のほうが琵琶を背負っている。(中略)


また、琵琶の種別の指標ともなる柱のかずは六つあり、雅楽琵琶(四柱)はもちろん、平家琵琶(五柱)、薩摩琵琶(四柱または五柱)とも異なっている。
盲僧琵琶は、さかのぼれば、もとはすべて六柱だったようなのだ。(中略)かつては九州全域で、六柱の盲僧琵琶が使用されていたらしいのだが、なによりもたしかな根拠として、九州一円の盲僧が伝承した「琵琶の釈」があげられる。


琵琶の各部の名称をさまざまな仏神になぞらえ、その功徳を説いた釈文(和文で説かれる経文)である。(中略)


琵琶の各部に諸仏がやどり、それがありがたい功徳をもつ法具であることを説いているが、とくに「六つの柱は六観音」とある点に注意したい。(中略)つまり、「琵琶の釈」が九州一円で行われていた時代には、盲僧琵琶はすべて六柱であったようなのだ。十三世紀末の『一遍聖絵』に描かれた琵琶法師のもつ六柱琵琶があらためて大きな意味をもってくるのである。




高野圏説話



『延慶本平家物語』において平康頼・僧都俊寬・少将成経の三人は鹿ヶ谷の陰謀に加担・連座の理由で油黄嶋に流された。康頼・成経はまもなく赦免されたが、俊寬は島で死去した。このことは現存する日記には見当たらない。また、『愚管抄』には記されてあるが、康頼と俊寬だけで成経には触れていない。『平家物語の研究』(赤松俊秀氏著参照)


麻原美子氏は有王そのものの存在については乏しい歴史資料の上から見きわめることは困難であり、説話の発生についてもわからないとされた。


延慶本を見ると下記のようである。


有王高野ヘ上リ御廟ノ御前ニ納メテケリ、其後寺々修行シテ主ノ後世ヲソ訪ケル。
姫君高野ヘモ尋ネオワシテ、父ノ骨納メタル所ヲモオカミタクオホシメシケレトモ、女人ノ上ラヌ所ナレハトテ、高野ノ麓天野別所ト云所ニテ、サマカヘラレニケリ、後ニハ真言ノ行者ト成テ、父ノ後世菩提ヲ祈給ケルコソ哀ナレ。童ハ修行シアリキケルガ、主ノ骨モ恋シクテ高野山へ立帰リ、南院ニ蓮阿弥陀仏ト被申テ、仏ニ花香ヲ奉リ、主ノ後世ヲソ訪ラヒケル。

有王こと蓮阿弥陀仏は『遣迎院交名帖』に頻出する。それを列挙する。


(【1】10)の5行目の上から6番目、(【1】11)の8行目の上から7番目、(【1】14)の1行目の上から2番目、(【2】1)の12行目の上から9番目、(【2】2)の14行目の上から4番目、(【3】4)の14行目の上から2番目、同じく24行目の1番上、(【4】1)の20行目の1番目、(【4】9)の20行目の上から5番目、(【4】10)の24行目の上から5番目、(【4】11)の2行目の上から2番目、同じく22行目の1番上に「蓮阿弥陀仏慈父」、(【4】13)の20行目の1番下、(【5】2)16行目の1番上、(【6】3)の12行目の上から3番目、(【6】4)の4行目の上から5番目、(【7】5)の14行目の上から3番目、(【7】10)の19行目の上から2番目、(【7】11)の2行目の上から6番目、(【7】15)の5行目の上から2番目に「蓮阿弥陀仏」がある。


以上の所見から、蓮阿弥陀仏こと有王丸は熱烈な高野聖であったことが判明した。


また、(【7】10)の15行目の上から5番目に「ヒメ殿」、6番目に「蓮阿弥陀仏」とある。従って俊寬の娘が高野山の麓の天野別所で出家したという説話が歴史的事実であることが証明される


また、交名帖における所在を省略して亀王の名を拾ってゆくと、 亀王、亀王丸、亀王丸、亀王、亀王、カメ王丸、亀王、亀王丸僧が見つかる。これらがすべて同一人物とは云えないが、「亀王」と「亀王丸」は俗名の勧進聖であろう。延慶本『平家物語』の「有王丸油黄嶋ヘ尋行事」に粟田口の三人の兄弟が俊寬僧都に仕えた。大兄は法勝寺の一預(いちのあづかり)であった。次郎は亀王丸、三郎は有王丸である。一次史料である『遣迎院交名帖』によって「俊寬説話」が歴史的事実であることが明らかになった。




ま と め


以上の研究事項をまとめてみる。


平家を壇ノ浦に滅ぼした源頼朝は、文治元年(1185)12月6日、後白河院に猫間中納言藤原光隆を越中守に任命し、内大臣藤原実定を越前守にせよと人事介入した。すなわち、頼朝は九条兼実を後援すると共に藤原光隆を優遇した。このことから平家物語が源頼朝と九条兼実が権力を掌握した時期に成立したことが分かる。


『遣迎院交名帖』の「沙弥生仏」は建久五年(1194)に成立した法然の『師秀説草』に結縁したから、法然の信者として九条兼実にも繋がりが強い人物である。


鎌倉遺文○七二九七は「大隅国在庁生佛」が建長三年(1251)に鎌倉幕府の六波羅探題に指揮されていたことを示している。したがって、建暦二年(1212)に四三歳であったと仮定された生佛は、建長三年(1251)の時点で八三歳の年齢であったと仮定される。この年齢なら生きていたといえよう。


したがって、平野さつき氏が提示した三つの条件A、B、CのうちのAとBを満たしている。


琵琶の各部に諸仏がやどり、それがありがたい功徳をもつ法具であることを説いているが、とくに「六つの柱は六観音」とある点に注意したい。(中略)つまり、「琵琶の釈」が九州一円で行われていた時代には、盲僧琵琶はすべて六柱であったようなのだ。十三世紀末の『一遍聖絵』に描かれた琵琶法師のもつ六柱琵琶があらためて大きな意味をもってくるのである。


麻原美子氏は「天台圏」、「真言圏」、「高野圏」という概念を提出されたが、個人的な集まりを考えて、「慈円圏」、「法然圏」「明遍圏」「深賢・頼舜・生仏圏」など集団を単位とする方法もあるのでないかと思う。


まとめを総括すると、原『平家物語』は一三世紀末頃までに慈円、九条兼実、法然らの傘下によって、法性寺、大懺法院、吉水、高野山を中心とする地域で成立したと考えられる。




結  論


『遣迎院交名帖』と『玉桂寺交名帖』の結縁者を詳しく調査することにより、麻原美子氏と平野さつき氏の説を支持し、より具体的な史実を明らかにすることになった。




尊卑分脉』第二編

 

 

遣迎院の胎内文書交名帖から見た原平家物語成立史の画像1

 

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