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法然の高野山籠時期〔論文〕

[登録カテゴリー: 歴史学



長谷川 浩文 (はせがわ こうぶん)

【筆者】 長谷川 浩文 (はせがわ こうぶん)

 

1963年生。1988年同志社大電子工学科卒、京都工芸繊維大学院博士(1998年、工学)。メーカー勤務を経て、実家のお寺で修行。現在、浄土宗西山深草派大善寺住職、浄土宗西山深草派宗学院助手。専攻は中世浄土学および『中論』。最近は、法然上人の高野山での行実研究を進めている。各種講習会で講師を務める。

【学術論文】

   

「清浄心院谷にあった曼荼羅堂(その三)」(『西山禅林学報』第32号、2018
「法然の高野山籠時期」(『印度学佛教学研究』第66巻第1号、2017
「法然の九宗歴訪時期」(『印度学佛教学研究』第64巻第2号、2016) ...その他多数

 

 


 

 

法然の高野山籠時期 長谷川 浩文


はじめに


著者は、法然(1133~1212)が高野山に籠ったこと[1]と、九宗歴訪に出掛けた時期が従来言われていた法然24歳ではなく、法然38歳頃であること[2]の二点について研究をしてきた結果、何れについてもほぼ間違いないと考える。本論文では、『知恩伝』から法然が高野山に籠った時期は、法然25歳から36歳までのおよそ11年の間に絞り込めることが明らかとなる。源智(1183~1239)著、宿蓮房(生没年不詳)編醍醐本『法然上人傳記』(以下、『醍醐本』と略す)には、法然が醍醐の三論先達大納言律師寛雅(生没年不詳)を、進士入道真観房感西(1153~1200)と阿性房印西(生没年不詳)を連れて訪ねたと記されていることから、法然が九宗歴訪に出掛けた時期は、承安元年(1171)、法然39歳頃であることが明らかとなる。このことは、著者が以前『醍醐本』等から導き出した結果とほぼ一致する結果となり、法然が九宗歴訪に出掛けた時期は法然38歳頃であることは間違いないであろう。



一、高野山籠時期


著者は、源智著、宿蓮房編『醍醐本』、信覚(生没年不詳)著『源空聖人私日記』(以下、『私日記』と略す)、湛空(1176~1253)著『本朝祖師傳記絵詞』巻第一(以下、『四巻伝』と略す)、明禅(1167~1242)著増上寺本『法然上人傳』(以下、『増上寺本』と略す)の現存最古の四つの法然伝から、法然が九宗歴訪に出掛けた時期は、嘉応二年法然38歳頃であることを明らかにした。


先ほどの四つの史料には、保元元年(1156)法然24歳から嘉応二年法然38歳頃までの14年間に関しては、時期を特定する記述はないが、唯一、時期を明記した史料が二つ存在する。京都知恩寺第五世智心(?~1313)著『知恩伝』(弘安三年(1280)頃成立)[3]と、智湛(生没年不詳)編『法然上人伝』巻第二(以下、『十巻伝』と略す)(大永六年(1526)成立)[4]である。『知恩伝』には、次のようにある。


信空 御弟子ニ成ル事


保元三年春、有ル人一童子ヲ黒谷ニ相具シテ來テ云ク、此兒天性佛道ノ志シ有リ、願クハ弟子ト爲シテ佛道ヲ教授セヨ、時上人廿五。候十二歳、是レ上人ノ最初ノ弟子ナリ、法蓮房信空コレナリ。宗行中納言ノ兄ナリ


法花三昧修行ノ事 繪詞ニ在リ、但シ委シカラス


永萬元年(割注 乙酉)四月比、三七日法花三昧ヲ修ス。夢ニ普賢菩薩白馬ニ乗シテ道場ニ現ス摩頂ス。時ニ上人三十三ナリ(後略)


花厳披覧ノ事 本傳ノ如シ、繪詞委シク之ヲ記ス
仁安三年(割注 戊子)秋比、黒谷ニ於テ花厳等ヲ披覧ス云々、行年三十六(後略)


法然は、保元三年(1158)春、黒谷において一人の童子と会い、法然はこの童子を最初の弟子としたことが記されている。この弟子は後の法蓮房信空(1146~1228)であるが、この記事の重要な点は、保元三年春、法然は比叡山黒谷に居た点である。『知恩伝』には保元元年、「茲因リ九旬参籠畢ヌ、即ニ黒谷ニ還住ス」[5]とあって、法然は嵯峨栖霞寺に九旬の間参籠した後黒谷へ帰った。なお、『十巻伝』では保元二年(1157)となっていて、この年法然25歳であることから保元三年は間違いであろう。次に、永萬元年(1165)四月頃、法然は法花三昧の修行をしたようである。修行した場所は記されていないが、法花三昧ということから考えて、これは黒谷での話であろう。次に、仁安三年(1168)秋頃、法然は黒谷において『華厳経』等を披覧したとあり、仁安三年秋、法然は黒谷に居たことになる。


数ある法然伝の中で、以上の事柄を年代まで詳細に特定した史料は、『知恩伝』と『十巻伝』の外には見当たらない。一般に、『十巻伝』は『知恩伝』から引用したと考えられているが、寶田正道氏はかつて『知恩伝』にある仁安三年の「黒谷ニヲイテ、花厳等ヲ披覧ス、云々」の部分の「云々」が、『十巻伝』には省略されずに記されているため、『十巻伝』は『知恩伝』以外の史料を引用していることを指摘された。[6]ここに、『知恩伝』の「云々」部分を『十巻伝』より引用する。


(前略)仁安三年(割注 戊子)秋比黒谷ニ於テ、華厳経ヲ披覧ス、コノ時小蛇机案上ニ蟠マル、法弟信空之ヲ見テ怖畏、當夜ノ夢ニ我レ是レ華厳経ヲ守護スルトコロノ龍神ナリ、怖レルコト勿レ云云 于時上人行年三十六歳(後略)


『知恩伝』の成立は弘安三年頃であるため、『知恩伝』と『十巻伝』が引用したこの部分の史料は、これより以前のものと言えよう。現存最古の四つの法然伝を比べると、華厳披覧の話は『私日記』・『四巻伝』に見え、『増上寺本』には見えない。法花三昧修行の話は、『私日記』・『四巻伝』・『増上寺本』に見える。『醍醐本』には、何れの話も見えないのは特徴的である。


『知恩伝』と『十巻伝』によれば、法然が高野山に籠った時期は、保元二年春以降仁安三年秋までのおよそ11年の間と言えよう。なお、『正源明義抄』(著者・成立年共に不詳)[7]にも別の事柄に関して年代を特定した記事があるため、この点に関しては今後の課題である。



二、九宗歴訪時期


著者は、法然が九宗歴訪に出掛けた時期は、嘉応二年、法然38歳頃であることを明らかにしたが、『醍醐本』には、法然が醍醐の三論先達大納言律師寛雅を、進士入道真観房感西と阿性房印西を連れて訪ねたと記されている。[8]


或時物語云 幼少ニシテ登山ス、十七ノ年六十巻ヲ亘ル、十八ノ年暇ヲ乞テ遁世ス、是レ偏ニ名利ノ望ヲ絶チ、一向ニ仏法ヲ学ンカタメナリ、コレヨリ以来タ四十余年、天台一宗ヲ習学シテ粗ク一宗ノ大意ヲ得タリ、我カ性ニハ大巻ノ書ト雖トモ、三反コレヲ見ルハ闇カラス、于ニ文義分明ナリ、然ルト雖トモ十年廿年ノ功ヲ以テモ一宗ノ大綱ヲ知ルニ能ハス、然ニ諸宗ノ教相ヲ闚テ聊顕密ノ諸教ヲ知ル、八宗ノ外ニ仏心宗ヲ加フ、九宗ニ亘テ其ノ中ニ適ニ先達有ラハ往キテ之ヲ決ス、面々印可ヲ蒙ル、當初ニ醍醐ニ三論先達有リ、往キテ彼ニ所存ヲ述ヘル、先達惣シテ言説セス、而シテ内ニ入テ文櫃十余合ヲ取リ出シテ云ク、我法門ニ於テ之ヲ付属スヘキ人ナシ、已ニ此ノ法門ニ達シ給ヘリ、悉ク之ヲ付属奉ラム、稱美讃嘆傍痛ノ程ナリ 進士入道阿性房同道シテ之ヲ聞ク云々



進士入道真観房感西について、舜昌(1255~1335)撰『法然上人行状絵図』(以下、『四八巻伝』と略す)巻四八に次のようにある。[9]


真観房感西(進士入道これなり)は19歳にてはじめて上人の門室にいる。師としつかへて、法要を咨詢すること、おほくのとしなり。選択を草せられけるにも、このひとを執筆とせられけり。また外記の大夫逆修をいとなみ、上人を請じたてまつりて唱導とす。上人、一日をゆづりて真観房につとめさせられき。器用無下にはあらざりけり。しかるを上人にさきだちて、正治二年潤二月六日、生年四十八にて往生をとぐ。上人念仏をすヽめ給けるが、「我をすてヽおはすることよ」とて、なみだをぞおとし給ける。


感西は19歳のとき法然の弟子になったことになり、正治二年(1200)48歳で往生したとあるから、感西が19歳の年は、承安元年となる。法然39歳の年に相当し、法然が醍醐の三論先達大納言律師寛雅を、感西と印西を連れて訪ねた時期もこの頃となり、著者が法然の九宗歴訪に出掛けた時期は、嘉応二年、法然38歳頃であることを明らかにしたこととほぼ一致する。法然が九宗歴訪に出掛けた時期は、法然38歳頃であることは間違いない。


感西は法然の弟子となって間なしに、九宗歴訪に連れられたことになる。感西は『選択本願念佛集』の執筆役の一人に指名されたことからも、法然の高弟として仕えた訳であるが、弟子になって間なしに九宗歴訪に連れられたことは、早くから法然は感西の文才ぶりを見抜いていたと言えよう。


『醍醐本』では、この後法相宗の先達蔵俊僧都(1104~1180)を訪ねたとある。以上は、『醍醐本』の中の「一期物語」に記されている。一方、『醍醐本』「別伝記」には、華厳宗先達の法橋慶雅(1103~1185)を訪ねたことが記されていて、これも法然38歳頃の出来事であろう。現存最古の四つの法然伝の内、『私日記』・『四巻伝』・『増上寺本』には、寛雅を訪ねた話は見られるが、慶雅を訪ねた話は見られない。『法然上人傳絵詞』(以下、『琳阿本』と略す)・『拾遺古徳傳絵詞』(以下、『古徳伝』と略す)・『四八巻伝』には、寛雅と慶雅を訪ねた話は史料によって順番は前後するものの、連続して記されているため同時期の出来事であろう。『知恩伝』には、寛雅・慶雅の何れの話も見えない。寛雅と慶雅の話は、「一期物語」と「別伝記」にそれぞれ別々に記されていたが、蔵俊の話は「一期物語」と「別伝記」の何れの史料にも記されていることは、蔵俊との話は当時法然門下の間で有名な話であったことを物語っていよう。


『醍醐本』と『私日記』には、この後それぞれ次のようにある。[10][11]


凡ソ先達ニ値フ毎ニ、皆ナ稱嘆セラレ惣シテ吾朝来到スル所ノ聖教乃至傳記目録、一見セサルコトナシ、爰ニ出離道ニ煩テ身心安カラス


宗ノ長者、教ノ先達、隨喜信伏セサルコトナシ。総シテ本朝ニ渡ル所ノ聖教、乃至伝記目録皆ナ一見ヲ加ヘラレ了ヌ。然ルト雖トモ出離ノ道ニ煩テ、身心安カラス。


法然は、天台宗の大綱を知ることが出来ないので、38歳頃九宗歴訪に出掛けた。その結果、各宗の先達はみな法然を称嘆し、隨喜信伏したのであった。法然にとっては、有り難い反面一方では、依然として天台宗の大綱を知ることは出来なかったのである。ところで、法然が言う天台宗の大綱とは、何を指すのであろうか。『醍醐本』と『私日記』から分かるように、出離の道を指している。法然は、出離の道を求めて九宗歴訪に出掛けたのであった。『醍醐本』に「十八ノ年、暇ヲ乞テ遁世ス、是レ偏ニ名利ノ望ヲ絶チ、一向ニ仏法ヲ学ンガタメ也」とある仏法とは、まさに出離の道を指している。法然は18歳の頃には、すでに出離の道を求めて仏法を学んでいたことが分かる。従って、法然が高野山に籠ったのも、出離の道を求めてのことである。その結果、高野山の密教には、出離の道を見出すことが出来なかったのである。


法然は、九宗歴訪に出掛けた結果、出離の道を求めることが出来なかったので、再び聖教・伝記・目録をすべて見ることにしたのであった。このことを、『琳阿本』には次のように記す。[12]


凡南都北嶺にして、諸宗の心をうかゝふに、天台の一心三観の法にいてす。みな凡夫たやすく生死を出へき法にはあらす、よて本山黒谷に還住して報恩蔵に入て一代五時の諸経はしめ、花厳の法界唯心、(後略)

法然は、再び黒谷へ還住し、報恩蔵に籠ったのである。そして、法然はようやく出離の道に関する天台宗の大綱を、善導(613~681)の『観無量寿経疏』(以下、『観経疏』と略す)に発見するのである。『醍醐本』より引用すると、次のごとくである。[13]


(前略)此ノ宗ノ奥旨ヲ闚テ、善導ノ釈ニ於テ二反之レ見ルニ、往生難シト思ヘリ、第三反度ヒ乱想ノ凡夫稱名ノ行ニ依テ往生スヘキノ道理ヲ得タリ、但シ自身ノ出離ニ於テハ已ニ思ヒ定メ畢ヌ(後略)

法然は、嘉応二年38歳頃九宗歴訪に出掛け、各宗の先達であった寛雅・慶雅・蔵俊を訪ねた。数々の法然伝には、この三人のことしか記されていないが、実際には他にも各宗の先達を訪ねたことが推定される。各宗の先達は、みな法然を称嘆し隨喜信伏したため、法然は依然として天台宗の大綱を知ることは出来なかった。その後、黒谷へ還住し報恩蔵に籠って、善導の『観経疏』にある「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念ゝ不捨者是名正定之業順彼佛願故」[14] の文を発見して、自身の出離の道の不安が解消されたのである。

 

 

註釈

番号 説明

[1]

長谷川2014年。

[2]

長谷川2016年。

[3]

『知恩伝』(井川定慶集解『法然上人傳全集』1952年、745頁)。

[4]

『十巻伝』(『浄土宗全書』第十七巻、1913年、299頁)。

[5]

前掲『知恩伝』745頁。

[6]

寶田1939年。

[7]

『正源明義抄』(『法然上人傳全集』832頁)。

[8]

『醍醐本』(『浄土宗典籍研究 資料篇』同朋舎出版、1988年、128頁)。

[9]

『四八巻伝』巻四八(大橋俊雄校注『法然上人絵伝』(下)、岩波文庫、2002、277頁)。

[10]

前掲『醍醐本』131頁。

[11]

『私日記』(『法然上人傳全集』770頁)。

[12]

『琳阿本』(『浄土宗全書』第十七巻、249頁)。

[13]

前掲『醍醐本』136頁。

[14]

『観経疏』巻第四(『浄土宗全書』第二巻、1908年、58頁)。

 

〈参考文献〉

文献
長谷川浩文「高野山に籠った法然」『印度学仏教学研究』第六三巻第一号、2014年
長谷川浩文「法然の九宗歴訪時期」『印度学仏教学研究』第六四巻第二号、2016年
寶田正道「知恩傳攷」『浄土学』第十五輯、1939年

 

 

法然の高野山籠時期〔論文〕の画像1

 

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