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親鸞聖人の父は誰ですか?〔研究ノート〕

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吉良 潤 (きら じゅん)

【筆者】 吉良 潤 (きら じゅん)

 

1936年(昭和11年)京都市に生まれる。
1962年(昭和37年)京都大学医学部を卒業する。
1972年(昭和47年)浄土宗西山深草派長仙院住職に就任する。
1990年(平成2年)同派宗学院教授、
2004年(平成16年)布教講習所教授、
2005年(平成17年)京都西山短期大学非常勤講師を経て、
2009年(平成21年)勧学を授与される。

 

 


 

 

親鸞聖人の父が藤原有範であることは、多くの研究者から支持されていました。 しかし厳密に考える研究者は、その伝承の元になった覚如の『親鸞伝絵』あるいは『尊卑分脉』そして本願寺に伝わる系図等だけでは十分な根拠にならないと考えています。


私たちは親鸞聖人が生きた時代に遡る一次的史料に基づいて、問題を解決しようと試みます。


  1. 九条兼実の日記『玉葉』の文治二年(1186)10月11日の記事に見られる「右兵衛督有範」という人物が頼朝の代弁者である一条能保のいうままに優遇され、九条兼実がそれにしたがって勘解由次官で後白河院の院司でもある藤原定経に指示していた。 右兵衛督有範が右兵衛佐である頼朝の一時的な上司として利用されていたのである。

  2. 三鈷寺文書によって、藤原(徳大寺)実定が領家であった鶏冠井庄の預所である皇太后宮少進藤原某は鶏冠井庄預所の長官(大夫(だいぶ))であった。

  3. 畑龍英氏は親鸞父・藤原有範が主殿頭に任官したことがあるとされた。

  4. 建久五年に成立した遣迎院阿弥陀如来立像に納められた交名の中に、藤原有範、藤原宗業、藤原範綱の兄弟が見出され、藤原信綱の名が範綱(法名観真)の息男を示唆する位置に記入されている。 また頼朝が平家に逮捕されたとき自殺した義朝の娘・源氏夜叉を藤原有範が追善するような位置でその名が記入されている。

  5. 藤原有範は元久元年(1204)から建保五年(1217)まで、北条義時が相模守であった期間中に、藤原有範が相模権守になり、また親鸞恵信尼夫妻が信蓮房を伴って関東に赴いた。 つまり藤原有範は北条義時の部下になっていたのである。 なぜ藤原有範が北条義時の部下になったのか。 そのわけは、藤原有範が源義朝の娘と結婚していたからである。 藤原有範は義朝の次男・朝長の同母姉(吉光女)を妻としていたから其の縁で相模権守になった。

  6. 建保四年(1217)4月26日薗城寺の長吏公胤が、夢の中で空中に「源空本地身、大勢至菩薩、衆生教化故、来此界度度ト」いう声を聴いたことを後院の弟子大進公が記した。 大進公は親鸞の父・藤原有範である可能性がある。

  7. 遣迎院阿弥陀如来像中の交名に、藤原範綱、藤原宗業、藤原有範、範綱(観真)の息男・信綱とその兄弟、筑前(恵信尼)、『覚禅鈔』の覚禅の名が見つかる。 信綱は範綱の子息である。

以上の根拠によって、やはり親鸞の父は武士の平有範ではなくて、藤原有範であることが確かになった。


 

 


 

 

関連タグ : [親鸞は源頼朝の甥]

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