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『自筆鈔』における心眼の解釈〔論文〕

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佐伯 憲洋 (さえき けんよう)

【筆者】 佐伯 憲洋 (さえき けんよう)

 

愛知県蒲郡市出身、1986年生。
現在、浄土宗西山深草派光明寺徒弟として、法務の傍ら、教学の研鑽に努めている。
専攻は日本中世の浄土教学について。主に、証空の思想を中心に勉強している。   

 

 


 

 


『自筆鈔』における心眼の解釈

証空/wikipedia




一 はじめに


善慧房証空(以下、証空とする)は『自筆鈔』の中で、衆生の見仏について記している。そして衆生が見仏には、仏を観るための心眼が必要であると示している。このように、心眼とは、行者が心想の中で、正・依二報を観るための眼を意味する語である。確かに、『観無量寿経』(以下『観経』とする)『観仏三昧海経』(以下『観仏経』とする)『観普賢菩薩行法経』(以下『観普賢経』とする)註1などや、また『坐禅三昧経』『思惟略要法』などの禅観経典類では、仏身・仏土の二報を観る眼として使われている。しかし、証空は、心眼に仏力という他力性を含め、さらに、二報のみならず、『観経疏自筆鈔』定善義巻二註2では、法を感得する眼であるとも見做している。これは、証空が、従来通りの解釈を採用する一方で、新たな独自見解を含めて解釈しているのである。つまり、既存の語に浄土教的要素を組み込み、新たに解釈し直していると言える。


このように、『自筆鈔』で示される心眼について考えることは、証空の既存の概念を浄土教的見地から再考するという作業を解明する一助となり得るだろう。そこで、まずここでは、証空が『自筆鈔』の中で、心眼をどう解釈しているか考察する。


また、表記の仕方について言及しておく。『自筆鈔』は、『観経疏自筆鈔』『般舟讃自筆鈔』『往生礼讃自筆鈔』『観念法門自筆鈔』の四種類のものが現存している。そこで、本稿では、個別に注目する場合は、『観経疏自筆鈔』『観念法門自筆鈔』というように表記する。しかし、四種類を総括して考える場合のみ、『自筆鈔』と表記することにする。






二 心眼の語義・解釈について


さて、まず、心眼の語義について考える。仏教語辞典などで調べると、「智慧」、あるいは「心の眼」などと書かれている。残念ながら、心眼に直接対応するサンスクリット語が無く、経典のサンスクリット原典を基に考えることはできない。しかし、『観経』や『観仏経』などの使用例から、言葉の意味を類推することはできる。


例えば、『観経』の(※1)註3の経文や、『観仏経』の(※2)註4という記述は、最も端的に示した箇所である。さらに、『観普賢経』には、(※3)註5と示されている。これらによると、心眼とは仏身を観る心の眼であることがわかる。今引用した『観経』『観仏経』『観普賢経』を確認すると、「以心眼」の後に「観」や「見」といった動詞が続いている。よって、心眼は「観」や「見」の動作を成すための手段・方法であり、「見」や「観」の動作を含んでいないことがわかる。


つまり、心眼は、何か動作を起す語ではなく、見仏・観仏するための器官に類する語であると類推される。



このような使い方は他にもある。例えば、鳩摩羅什訳『大荘厳論経』に、(※4)註6と示されている。また、鳩摩羅什訳『思惟略要法』には、(※5)註7のように記されている。やはり、いずれの場合も、心眼は心を働かせ観るというより、仏身を観るための手段と解釈されていることがわかる。ただ、心眼は仏身のみならず、依報を観ることも含んでいる。例えば、『観経』の、(※6)註8という文には、心眼が開けることで、心中に仏身・仏土荘厳を観ると記されている。




しかし、この『観経』の引用は、ややもすれば、心眼に心の働きを含めていると受け取られる可能性がある。そこで『観仏経』の、(※7)註9という文と照らし合わせてみる。この『観仏経』の箇所は、引用した『観経』の記述と酷似している。現在、先行研究により『観経』と『観仏経』の類似性が指摘されている註10


さて、この両経の文から、心眼と心想力とが対応することがわかる。心想力とは、心で認識する働きを意味する語である。これは、例えば、支婁迦讖訳の『般舟三昧経』行品註11に示される「見」と同義である。(※8)


このように、心想の働きにより観るとなると、心眼は心想「citta-saṃjñin」に類似する意味で捉えられていると考えるべきであろうか。ただ、これらの場合、心想というより、むしろ心の智慧の働き、心智「citta-jñana」と解釈するべきであろう。



しかし、心眼を心の働きのように捉える場合は、「心眼即開」や「心眼開」といった定型の表現が用いられている。例えば、『観仏経』の(※9)註12の文や、(※10)註13という文では、「心眼即開」・「心眼開」と示されている。ここでは、智慧を以て、心を働かせ、仏身を観ることを意味している。よって、心眼の一語について解釈をするならば、やはり、観るための智慧と考える方が適切ではないか。そして、「心眼即開」と言う時のみ、その観る智慧が働いている状態を示していると解釈するべきであろう。


また、『梵和大辞典』を確認すると、「citta」は「心」「識」「意」「思」「思議」と漢訳されている。この場合の「意」や「識」は、「manas」とは異なり、認識する心の働きという動作的意味はない。そして、禅定により心中で観るので、心眼を智慧に類する概念として考えることは可能である。



ただ、「以心眼」や「心眼即開」とはあるが、しかし「得心眼」のように、心眼自体を得るという記述はない。心眼は、衆生の行等により開かれるとしても、それ自体が後天的に獲得されるものであるとは断言できない。

ただ、六十『華厳』宝王如来性起品註14に、仏の智慧は本来衆生の中に備わっていて、仏の光明により開かれると記している。残念ながら、この仏の智慧は、観仏・見仏と関係がないものである。よって、ここでの根拠とすることはできない。しかし、六十『華厳』は仏駄跋陀羅訳で、『観経』『観仏経』註15などと近い時代に訳された経典の一つである。その点、智慧と同等視される心眼は、本来、衆生に備わっていると考えられていた可能性がある。また、自力により観るのか、他力により観るのかという違いもあろう。しかし残念ながら、これまで、引用してきた諸資料では、確実に自力・他力の違いを決定できる証文はない。よって、本来備わっているのか、または後天的に得るのか、そして、自力なのか・他力なのかについて断定することはできない。






三 『自筆鈔』で示される心眼の解釈


次に、『自筆鈔』で示されている心眼について考察する。まず、『観経疏自筆鈔』序分義巻二の、「心眼トイハ、他力ニ依リテ仏ヲ見ルト云フ名ナリ。是則チ、観門ノ智ヲ開ク心ナルベシ。註16」という文が、最も端的に言い表している。つまり、心眼とは、仏力に依り、仏身を観ることである。先程と違い、証空は他力であることを明言している。そして、「観門ノ智」を開く心であるとも記している。この「観門ノ智」とは、阿弥陀仏の功徳により示された法を認識する智慧である。


証空は、『観経疏自筆鈔』の随所で、凡夫は報仏の功徳知ることができないことを述べている註17。しかし、「観門ノ方便以テ且ク是ヲ分別スレバ、文ノ面ニ尽クシ難シ。心眼開ケテ見ルベシト云フ心ナリ。註18」と記していることから考えると、やはり、凡夫自身では、報身仏の功徳を感知することができない。しかし、観門の方便を用いれば、その功徳を感知することができると考えているようである。「観門ノ方便」とは、「観門ノ智」と同義である。



この「観門ノ智」は、報身仏と化身仏の関係から考えることができる。まず、観門とは、定散十六観であり、釈迦により説き出された教説を指す。『観経疏自筆鈔』の言葉を用いれば、観門は報身から具現化した仏身(化身)による教説となる。その報身と化身の関係は、『観経疏自筆鈔』玄義分巻三に、「化身ハ機ニ随フ身ナリ。報身ノ智ヨリ示ス。註19」と述べられている。そして、また、『観経疏自筆鈔』玄義分巻二には、「弘願ヨリ観門開クレバ、報仏化仏ヲ現ジ給フ。註20」と記されている。証空が、阿弥陀仏を報身と見做していることは、周知のことであり今は省略する。



また、『観経疏自筆鈔』玄義分巻二に、「化身ハ、此ノ報仏ノ功徳ヲ、衆生ニ説キ聞カセン為ノ身ナレバ、仏ノ義ヲ釈スル時ハ、真実ノ本意ヲ存シテ、報身ノ仏ノ相ヲ釈スルナリ。註21」と記されていて、化身の果たすべき役割についても言及されている。



証空は、阿弥陀仏を報身とする根拠に酬因義を採り、報身を覚行窮満の仏であると示している。よって、報身には智恵が備わっていると考えている。その証拠に、証空は『観経疏自筆鈔』定善義巻一に、「光明ハ、智恵ノ体、報身ノ功徳ナリ。註22」と記し、光明が報身の功徳であり、さらに、光明が智恵と同等関係にあたると考えている。その智慧とは、『観経疏自筆鈔』散善義巻一に、「諸法ノ理ヲ知ルナリ。註23」と示されている。そして、その諸法とは、「穢ヲ厭ヒ、浄ヲ欣フベシ。註24」の文から、厭離穢土・欣求浄土の理であることがわかる。



ここまでをまとめると、釈迦は、阿弥陀仏の持つ智慧を具現化した化身である。そして、観門では、その厭離穢土・欣求浄土の理が示されると考えられている。よって、阿弥陀仏の功徳から示された法を知る智慧が「観門ノ智」といえる。このように考えると、右記の『観経疏自筆鈔』序分義巻二註25で、法を理解する智慧を心眼と考えていることは間違いではない。このような解釈は、右記した心眼の語義の解釈にはなかった。この解釈には、証空の機法一体説の関連が指摘できる。これについては、今後の研究課題として残したい。



ただ、証空は、『往生礼賛自筆鈔』巻五の、「真仮等シク、弘願ヲ詮スル心顕ハレテ、華座ノ上ニ端厳ノ仏像坐スト思フ心、了了ニナリヌレバ、弘願相応ノ故ニ、浄土ノ荘厳ヲ見ル事分明ナルベシト云フナリ。註26」の文から、正報に加え依報もまた観ると考えていることがわかる。この正・依二報を観るとすることは、従来の解釈と同じである。



今引用した『往生礼讃自筆鈔』巻五の記述は、善導が『往生礼讃』に、(※11)註27と記した箇所を解釈したものである。『往生礼讃』の中の、「心開見二彼国荘厳一」という一句は、『観経』にある、(※12)註28という経文を意識している。これを『往生礼讃』では、阿弥陀仏が衆生の心想の中に入り、それによって、衆生は心に想を起して観ると示している。よって、想を起すことを「心眼得開」に該当させている。『観経疏』玄義分の、(※13)註29」という記述から、乱想から定心の状態になることで、初めて二報を観ることができると考えていることがわかる。その乱想から定心の状態に入って観ることを、「心眼得開」と示しているのである。これは、右記の『観経』や『観仏経』などにある、「心眼即開」の解釈と同じである。『般舟讃自筆鈔』巻四にあるように、証空も、「心眼即開」を同様に解釈している。




以仏力故成三昧三昧得成心眼開トイハ、凡夫ノ三昧自ラ成ジ難シ。願力不思議ナル故ニ、往生極楽ノ大事成ズレバ、見仏三昧必ズ成就スト云フ事ヲ釈成スルナリ。心眼開トイハ、自力ノ眼ニ是ヲ成ゼズ、心眼ヲモテ是ヲ見ルトイハ、今ノ観門ノ故ニ見ルト云フナリ。諸仏境界超凡外唯知慚賀釈迦恩トイハ、観門ノ智開ケテ弥陀ヲ見奉ル時、心了々ニシテ、仏ノ境界、心ニ浮ベバ、日頃ノ凡夫ノ見ニ勝レタル事、譬ノ顕ハス所ニアラズ、不思議ナリ。註30

これを踏まえれば、『往生礼讃自筆鈔』巻五註31にある、「端厳ノ仏像坐スト思フ心」という一句を、「心眼即開」に当て嵌めていると考えられる。もっとも、「凡夫ノ三昧自ラ成ジ難シ」という表記から、三昧といっても、自力に依るものではないことが予想される。三昧とは、『観念法門自筆鈔』巻下の、「心眼即開得見彼仏了然而現トイハ、口称ニ依リテ三昧ヲ得ル事ヲ釈スルナリ。見仏即チ三昧ナレバ、此ノ三昧ヲ定ト名付クト云フナリ。註32」という記述から、口称三昧を指すと考えられている。つまり、「南無阿弥陀仏」と称え続けることにより、仏身を観るのである。このことは、『観念法門自筆鈔』巻下にも書かれている。



凡夫ノ肉眼ヲモテ報土ノ荘厳ヲ見ル事、最モアリ難キモノナリ。…(中略)…定心三昧ヲ得、及口称三昧ヲ得テ心眼開クト云ヘルハ、心眼開クレバ、二種ノ三昧ヲ得テ彼ノ荘厳ヲ見、二種ノ三昧ヲ得ト云フベシト雖モ、観門弘願暫クモ離レザレバ、文ハ上下シテ、心ハ互ニ具スル事ヲ顕ハスナリ。註33


よって、証空が、心眼を二報を観る智慧とし、「心眼即開」の場合のみを心智により想念を起して観ると考えていることは、従来の解釈を踏襲しているといえる。しかし、「観門ノ智ヲ開ク心」というように、仏により示された法を認識する智慧という意味を、新たに追加している。以上を踏まえれば、『観経疏自筆鈔』定善義巻二で、心眼を法眼と対応させていることも不思議ではない。その箇所を次に示す。



法眼トイハ、出離利生ノ智ナリ。彼ノ聖道ノ教ハ、即チ利他ノ法ナレバ、末世ノ凡夫ハ千年ノ寿ヲ具シテ、上世ニ修ストモ、成ズベカラズトキラフ心ナリ。若シ今ノ教ノ心ヲ指サバ、心眼ト云フベシ。法眼ト云フ心、其ノ謂アルモノナリ。今、観門他力ニハ、凡夫道理ヲ得ル智ヲ指シテ心眼ト云フ。法眼・心眼ノ差別ヲ用ヰテ乱ルベカラズ註34


この法眼とは、五眼の内の一つで、菩薩が持ち、諸法を感知する眼である。これまで見てきたように、証空は、「凡夫道理ヲ得ル智ヲ指シテ心眼ト云フ。」と記し、心眼を道理を知る眼であり、智恵であると考えている。この「道理」とは、既に示した厭離穢土・欣求浄土である。心眼と法眼とは、法を知るという点で共通する。このような、心眼を法眼と関連させて解釈する見方は、従来の心眼の解釈には無かった。よって、証空の解釈と、従来の解釈を対照すると、法を認識するという意味が込められるか否かが大きな相違点となる。



最後に、『般舟讃自筆鈔』巻四で、「心眼トイハ、意識ヲ指スナリ。意識利根ニシテ、此ノ界ノ衆生ニ異ナリト云フナリ。註35」と、心眼を意識に対応させていることについて考える。この「意識」を第六識の「manas」とすると、識知・思考などの意となり、心眼自体が動作を持つ語になってしまう。「心眼即開、了了分明」のような連語であれば、「manas」のような解釈も可能であろう。しかし、心眼の一語で考えた場合、少々行き過ぎた解釈である感が否めない。また、「citta」の漢訳に、「識」・「意」・「思」・「思議」があったことを思い返せば、この意識は六識の「manas」でなく、やはり「citta」の語訳とする方が適切であろう。



結果として、『観経疏自筆鈔』定善義巻二に、「観門他力ニハ、凡夫道理ヲ得ル智ヲ指シテ心眼ト云フ。註36」と記す通り、他力により、仏の示した法を認識する智慧を心眼としていることがわかる。







四 小結



以上、証空が、心眼をどう解釈しているかについて考えてきた。そもそも、心眼は『観経』や『観仏経』、諸々の禅観経典に説かれていて、いずれも正・依二報を観るための眼として用いられていた。証空も、このような従来の解釈を踏襲して用いている。しかし、従来の解釈では、二報を観ること以外、自力・他力の違いなど、所々不明瞭な点があった。そのような中、証空は、まず心眼を他力に依る観であると規定する。そして、心眼について、報身仏より示された法を知る眼、智慧という解釈を追加している。この、心眼に、法を認識させる智慧とする視点を追加することは、証空独自の考え方である。



これまで論を進めてきて、証空は既存の考え方を、浄土教的な観点から解釈し直していると思う。ことによると、証空は従来の思想を再検討することで、会通を図っていることが推測される。今回は、心眼の解釈を通して、その一端を垣間見ることができたのではなかろうか。本考察で残された問題点は、今後の研究課題としたい。






註釈

註1 先行研究では、『観無量寿経』・『観仏三昧海経』・『観普賢菩薩行法経』・『観弥勒上生兜率天経』・『観虚空蔵菩薩経』・『観薬王薬上菩薩経』を六観経と称し、それぞれ類似する特質を持っていると考えられている。

註2 西叢二・八〇頁上。

註3 浄全一・三九頁。

註4 大正一五・六五七頁上。

註5 大正九・三九〇頁下。

註6 大正四・三一二頁下。

註7 大正一五・二九九頁下。

註8 浄全一・四三頁。

註9 大正一五・六四九頁上。

註10 ここは、色井秀譲氏の先行研究による。色井氏は、『観無量寿経』と『観仏三昧海経』の類似性を指摘している。また、『観無量寿経』と『観仏三昧海経』の類似性は、色井氏だけでなく、小澤勇貫氏や大南龍昇氏も主張している。色井秀譲「観仏三昧海経と観無量寿経」(『印度学仏教学研究』一三号㈠ 一九六五年)、大南龍昇「『観仏三昧海経』の三昧思想」(『仏教学』四〇号 一九九九年)、小澤勇貫「観仏三昧の源流」(『浄土学』三号 一九三二年)

註11 大正一三・九〇五頁上。(支婁迦讖訳、三巻本『般舟三昧経』行品。)

註12 大正一五・六六五頁中

註13 大正一五・六六五頁下。

註14 大正九・六二二頁中~六二五頁上。(仏駄跋陀羅訳、六十『華厳』 宝王如来性起品。)このように、智慧が衆生に本来備わるという発想は、仏駄跋陀羅訳、六十『華厳』のみに見られる。また、実叉難陀訳、八十『華厳』如来出現品には、そのような記述は無い。

註15『観仏三昧海経』は、仏書解説辞典を含め、これまで仏駄跋陀羅訳と考えられてきた。しかし、現在、訳者を仏駄跋陀羅とする見方は疑問視されている。

註16 西叢一・二二〇頁上。

註17 西叢二・一一一頁下。

註18 西叢二・一〇五頁上。

註19 西叢一・一一一頁上。

註20 西叢一・七六頁下。

註21 西叢一・三九頁下。

註22 西叢二・二五頁上。

註23 西叢二・一六三頁上。

註24 西叢二・一六三頁上。

註25 西叢二・八〇頁上。

註26 西叢三・一三九頁上。

註27 浄全四・三七二頁上。

註28 浄全一・四三頁。

註29 浄全二・三頁上。

註30 西叢四・六七頁上。

註31 西叢三・一三九頁上。

註32 西叢四・一九五頁上。

註33 西叢四・一八九頁上。

註34 西叢二・八〇頁上。

註35 西叢四・五九頁下。

註36 西叢二・八〇頁上。

 

 

 

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