證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説/研究論文アーカイブスの詳細ページ/浄土宗西山深草派 宗学会

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證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説

[登録カテゴリー: 法然教学



稲田 順学 (いなだ じゅんがく)

【筆者】 稲田 順学 (いなだ じゅんがく)

 

昭和18年、名古屋市古渡に生まれる。
父親の戦死により、稲沢市真福寺に疎開。佛教大学卒。大谷大学修士課程修了。昭和43年、蓮華寺に入って稲田姓となり、昭和46年住職拝命。名古屋で唯一深草派寺院の住職として月参りに専心しつつ、宗派の教育機関である宗学院・布教講習所において講義を担当。

 

 


 

 


證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説

証空/wikipedia


―法然が駆使した与奪門―

 

共著者:吉良潤/稲吉満了/加藤義諦


 

はじめに

 

我々は最近、法然の思想史の一端を研究する機会があったが、そのとき證空の三門(行門・観門・弘願)は、法然の『選択本願念仏集』(以下『選択集』)以降の晩年の思想であることに気が付いたので、そのことを論じたい。この論文は證空浄土教学の研究ではなく、全く法然の思想史研究であるから、本誌(補註1)に発表して研究者のご批判を請う次第である。

 

方法論

 

法然はどのような意図から教相判釈を変化させていったのか。その背後にはどのような思考が働いているのかを明らかにするため、法然の著述、法語あるいは聞書を必要に応じて簡略に文献批判し、成立時期を限定しながら、その中から教判論をとり出し、法然の初期から晩年に至る教判思想の変遷を追求する。

我々は、法然の以下の六著は、(1)『三部経大意』、(2)『無量寿経釈』、(3)『逆修説法』、(4)『観無量寿経釈』・『阿弥陀経釈』、(5)『選択集』の順に成立したと考える(註1)。さらに『選択集』以後の法然の思想を探るために『十七条御法語』、醍醐寺三宝院蔵『法然上人伝記』(以下『醍醐本』と表記)、『登山状』、実信房の『述成』を研究の対象にする。

本論での引用文には現在通用の漢字を使用し、便宜上、漢文体の史料は延書とした。引用文中の圏点はすべて著者らが付したものである。


法然は天台の理論である「与奪二門」を生涯、用いたようである。「与奪二門」とは「与門」(あるいは「与釈」という)と「奪門」(あるいは「奪釈」という)のことである。与門(与釈)とは広義の解釈のことであり、ものごとを寛容に評価する立場である。あるいは、ものごとの内容を豊かにする立場である。従って対象を肯定することを基盤としている。与えるためには評価の対象を先に認めておかなければならないからである。奪門(奪釈)とは狭義の解釈のことであり、ものごとを厳密に批判する立場である。あるいは、ものごとの内容の純粋性を窮める立場である。対象を徹底的に批判し不純なものを奪っていけば、最後には何も残らなくなることもあるので、奪釈の究極は否定となる。


『摩訶止観』巻第十下(註2)には、

それ仏法に両説あり、一には摂、二には折。安楽行の長短を称せざるが如きは、これ摂の義なり。しょうしゃく『大経』(『涅槃経』のこと)の刀仗を執持し、乃至首を斬るはこれ折の義なり。与奪途を殊にすと雖も、こと倶に利益せしむ。

とある。摂受の「摂」は「与」にあたり、折伏の「折」は「奪」に相当する。『醍醐本』の「別伝記」(註3)に伝えられるように、法然は若い時から智顗の天台三大部を習学していたから、与奪の理論にはよく通じていたであろう。今回、法然の思想史を追跡するにあたって、特に与奪の論理がどのように用いられているか注目した。




本論

(1)『三部経大意』(註4)


(前略)又真実に二種あり、一には自利の真実、二には利他の真実なり。真実に自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたり釈せり。これにつきて惣別の義あるべし。惣といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり

我々は『三部経大意』は法然の初期の著作で、その成立年代は、『三部経大意』には善導弥陀化身説があることから、上限は法然が五十一歳で二祖対面した寿永二年(註5)から、下限は文治六年、法然五十八歳の東大寺講説までであると考える(註6)。右に引用したように、法然は至誠心を定善・散善・弘願の三門で論じているが、定善門と散善門を自力(惣)と捉え、弘願を他力(別)としている(図1)。法然がこれを三門と呼んでいるのは、善導の『観経疏』の中の「定散両門」という語によったものであろう。『三部経.大意』の自力・他力は浄土門の中の自力・他力であるから、『安楽集』による「聖道門・浄土門」の二門判ではなく、実質的には『観経疏』による正行・雑行の「二行判」である。つまり『三部経大意』には『安楽集』による「二門判」がないから、それのある『無量寿経釈』以前のものである。しかも、弘願を含めた三門という名目は、證空教学の最初期から使用された「行門・観門・弘願」を連想させるものがある。与奪二門から見ると、自力(惣)は通仏教的であるから与釈(与門)であり、対する他力(別)は奪釈(奪門)といえよう。



(2)『無量寿経釈(註7)


二に正しく二教を立つとは綽禅師の意、略して二教を立てて、以て仏教を判ず。一には聖道の教、二には浄土の教なり


法然の東大寺講説『無量寿経釈』は右に掲げたように「聖道教・浄土教」という名目の二教判である。しかしその内容は「聖道門・浄土門」という『選択集』などの後期教判と内容は同じものである。どうして法然が『無量寿経釈』で「聖道教・浄土教」という名目を使用したかというと、『三部経大意』において法然は『選択集』における「正行・雑行」の中の雑行と同じ意味で「定善門・散善門」の名目を使用していた。これは善導の『観経疏玄義分』に「定散両門の益」という語があるからである。そして『無量寿経釈』においても、同じ「定善門・散善門」を使用したから、『安楽集』の「聖道門・浄土門」という「門」の字を使用できなかった。教判の中で「門」が重複するからである。それで法然は『無量寿経釈』において、道綽の『安楽集』によって仏教を二つに分けたとき、「教」の字を使用したのである。つまり、法然は東大寺講説である『無量寿経釈』を講じた時は、恵心の『往生要集』から善導の『観経疏』の研究に入った経緯から、まだ善導の「定散両門」の名目を尊重していたので、『安楽集』によって仏教を二分した時も、『安楽集』の名目「聖道門・浄土門」を使用しなかったのである。その証拠に法然は『無量寿経釈』では二人の祖師を「道綽・善導」と呼ばずに「善導・道綽」と呼んで『観経疏』を『安楽集』よりも優先している。



(3)『逆修説法』


建久五年、法然六十二歳の『逆修説法』の第二七日において、法然は「今この観無量寿経に二の意あり。初めには定散二善を修して往生することを明かし、次には名号を称して往生することを明かす」(註8)と述べて、「定散二門」の代わりに「定散二善」を使用した。そして同じ日の講説の中で、法然は「次に勧進行者とは、聖道・浄土二門の勧進あり。浄土宗の意、一代諸教諸宗の法門、此の聖道・浄土の二門を出でず(註9)」と述べ、初めて「聖道門・浄土門」の名目を使った。第四七日では、「次に観無量寿経とは、此の経には定散二門を説いて、往生の行業を明かす。いわゆる三福・九品の散善、十三の定善なり(註10)」と「定散二門」を再び使用している。しかし「勧進行者、道綽の御意に依れば、聖道の行者あり、浄土の行者あり。一に聖道の行者とは八宗の行者これなり。浄土の行者とは専ら往生を求むるの輩なり。この二門の行者に就きて勧進するとは、則ち往生の業なり」(註11)と「聖道門・浄土門」の使用に変わりはない。第六七日では法然は、「今我が浄土宗には道綽禅師の安楽集に聖道・浄土の二教を立つ。一代聖教五千余軸、この二門をば出でず。初めに聖道門とは、三乗・一乗の得道なり(註12)」と二教と二門を同時に使った。しかし、これから以後はすべて「聖道門・浄土門」「定散二善」の名目だけになる。従って法然は『逆修説法』の最中に「聖道教・浄土教」を「聖道門・浄土門」に換え、これに連動して、「定散二門」を「定散二善」に替えたのである。興味深いことに、法然は『逆修説法』において、教判論に関して「善導・道綽」も「道綽・善導」も使用していない。まさに『逆修説法』は「聖道・浄土二門判」の名目成立の過渡期に当たるのである。



(4)『観無量寿経釈』(註13)・『阿弥陀経釈』(註14)


『逆修説法』と『選択集』の間に成立した『観経』と『小経』の二釈(註15)では、「聖道門・浄土門」の二門と「定散二善」に固定している。教判論においても、法然は古い「善導・道綽」を使わず、新しい「道綽・善導」を使用している。だから、「聖道門・浄土門」、「定散二善」と「道綽・善導」の名目は相互に不可分に関連していて、その形成過程を見ても、『三部経大意』→『無量寿経釈』→『逆修説法』→『観無量寿経釈』・『阿弥陀経釈』→『選択集』の順で成立していることが再確認される。



(5)『選択集』(註16)


建久九年法然(六十六歳)は『選択集』において、末法の世に生きる衆生が救われる道、すなわち全ての衆生が行える仏道修行は「念仏の一行」であるということを明らかにした。釈尊が定散二善を阿難に付属せず、ただ称名念仏の一行を付属したことは、称名念仏から定散二善の意義を奪ったことを意味する。すなわち、称名念仏は行ではあるが、衆生が積む善根功徳の意義はないのである。しかし通仏教的には、すなわち、与えていえば、称名念仏自体が善根功徳の意義を有していることに変わりはないので、『選択集』で阿弥陀如来の前において、否定され(奪われ)た「行善としての念仏」は定散十六観門の中の読誦大乗の六念の中證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説の念仏に移されたのである。これを法然は「若し上の三福に准ぜば、第三福(行善)の大乗の意なり」と概念規定している(註17)。『選択集』の「念仏の一行」は善としての意義を否定され(奪われ)た(註18)が、まだ衆生の側のはからいである「行」の意義が残されている。『三部経大意』の自力の「定善門・散善門」(惣)は『選択集』の「定散行」に、『三部経大意』の「弘願」(別)は『選択集』の「念仏一行」に対応する。


ところで法然は『選択集』の第七章において、「また引く所の文の中に、自余の衆善は、これ善と名づくと雖も、もし念仏に比すれば、全く比校に非ずと言ふとは、意の云く、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり」(註19)と述べている。「浄土門の諸行」とは定散十六観門に当たる。『選択集』には「聖道門の諸行」という名目は書かれていないが、「浄土門の諸行」という言葉があるからには、対の「聖道門の諸行」という概念が当然あるであろう。この一対の名目は後に『醍醐本』において説かれることになる(このことは後に論じる)。そうすると、『選択集』の教判は、右のようにまとめられる。(図2)



なお、『選択集』の構成自体が与奪門によって構築されていることは、別稿に論じる(註20)



(6)十七条御法語(註21)


(第七条)
又云、玄義ニ釈迦ノ要門ハ、定散二善ナリ。定者息慮凝心ナリ、散者廃悪修善ナリ。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生トイヘリ。予コトキハ、サキノ要門ニタエス、ヨテヒトヘニ弘願ヲ憑也ト云リ。

(第十条)
又云、往生ノ業成ハ、念ヲモテ本トス。名号ヲ称スルハ、念ヲ成セムカタメ也。モシ声ヲハナルルトキ、念スナワチ懈怠スルカユヘニ、常恒ニ称唱スレハスナハチ念相続ス。心念ノ業、生ヲヒクカユヘ也。

(第十四条)
(前略)就人立信者、出離生死道雖多、大分有二。一聖道門、二浄土門。(後略)

(第十五条)
又云、善導与恵心相違義事。善導ハ色相等ノ観法オハ、観仏三昧ト云ヘリ。称名念仏オハ、念仏三昧ト云ヘリ。恵心ハ称名観法合シテ念仏三昧ト云ヘリ。


この法語は『選択集』成立後のものではないかと思われる。その理由は、『観無量寿経釈』・『阿弥陀経釈』・『選択集』で使用されるようになった「聖道門・浄土門」「定散二善」「観仏三昧・念仏三昧」の名目を使用している上に、『選択集』でも殆ど説かれなかった「弘願」(註22)を重視していること、第十条に『選択集』の奥義(註23)である「名号を称するは念を成ぜんがためなり」を述べていることによる。第七条は、要門である定散二善にたえない自分は偏に「弘願」をたのむと、要門から弘願を仰ぐ義勢が見られる。これは『三部経大意』に、「頗フル我等カ分ニコエタリ」「コヽニ知ヌ、余行ニオヒテハ、貪瞋等ノ煩悩ヲ発サスシテ行スヘシト云事ヲ」とある解釈に対応している。また、この解釈は後に證空が説いた、観門は所詮である弘願を能詮するものであるという教説の源である(図3)。第十五条は、定散二善を観仏三昧、弘願念仏を念仏三昧とする西山教義の原型である。



(7)『醍醐本』第一篇「一期物語」(註24)


ある人問ふて云はく。常に廃悪修善の旨を存じて念仏せむと、常に本願の旨を思ひて念仏すると、何れか勝れたるや。


答ふ。廃悪修善は、これ諸仏の通戒たりといへども、当世の我等は悉く違背せり。若し別意の弘願に乗ぜずば、生死を出ずること難きものか、云々。また云はく。聖道門の諸行は皆四乗の因を修して四乗の果を得。故に念仏に比校するに及ばず。浄土門の諸行は、これを念仏に比校する時、弥陀の本願に非ざれば、光明これを摂取せず、釈尊も付属したまはざる故に、全く比校に非ずと云ふなり。然れば、道綽・善導の宗義は大いに異なり。よくよく一々に分別すべし。これを知らば、聖道・浄土の二門、異なるといへども、行体これ一なり。義意、知るべし、云々。(原漢文)


『醍醐本』第二篇「禅勝房への答」(註25)

三、問ふて云はく。余仏・余経に付きて結縁し助成せむ事は、雑となるべく候か。


答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起らむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。善導の釈の中に、「すでに他の善根を随喜し、自他の善根を以て浄土に廻向す」と云々。この釈を以て知るべきなり。(原漢文)



『醍醐本』「一期物語」「禅勝房への答」は真観房感西が亡くなって、勢観房源智が六十八歳の法然の手もとに引き取られてから、法然が七十五歳で流罪されるまでの聞書であろう。


法然は勢観房源智に、「聖道門の諸行」と「浄土門の諸行」は行の有様である行体は全く同じであること、ただそれを行う上での精神が自力か他力のどちらであるかによって、判別されるのであると説いた。このことは浄土門の定散二善十六観門が法然によって「浄土門の諸行」と概括されていることを示す(図2)。だから「一期物語」の「聖道門の諸行」「浄土門の諸行」の名目は『選択集』の概念を継承したものである。これは後に「浄土門の諸行」は「観門」、「聖道門の諸行」は「行門」という更に洗練された名目に替わって、證空によって活用されることになる。


「禅勝房への答」は、異類の助業が信仰を得た(弘願に帰した)後には同類の助業になることが説かれている。このことは、證空の弘願から観門が開出される開会の釈の原型である。(図5参照)




(8)『登山状』(註26)(『元久法語』)


(前略)惣してこれをいへば、定散二善の中にもれたる往生の行はあるべからす。(中略)又善導和尚この観経を釈しての給はく、娑婆の化主その請によるかゆへに、ひろく浄土の要門をひらき、(中略)あふいでおもんみれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はかのくにより来迎し給ふ。こゝにやりかしこによばふ、あにさらざるべけんやといへり。しかれば定善・散善・弘願の三門をたて給へり。その弘願といは、『大経』に云、設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法といへり。善導釈していはく、若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚。彼仏今現在世成仏、当知、本誓重願不虚、衆生称念、必得往生、云々。観経の定散両門をときおはりて、仏告阿難、汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名、云々。これすなはちさきの弘願の心也。又おなじき経の真身観には、弥陀身色如金山、相好光明照十方、唯有念仏蒙光摂、当知本願最為強、云々。又これさきの弘願のゆへなり。阿弥陀経にいはく、(中略)恒河沙の仏ましまして、広長舌相を出して、あまねく三千大千世界におほひて、誠実の事也、信せよと証誠し給へり。これ又さきの弘願のゆへ也。又般舟三昧経にいはく、(中略)かくのごとくしてわがくにゝ来生する事をうとの給へり。これ又弘願のむねを、かのほとけ身づからの給へり。(中略)


永劫の修行はこれたれがためぞ、功を未来の衆生にゆづりたまふ。超世の悲願は又なんの料ぞ、心ざしを末法のわれらにをくり給ふ。われらもし往生をとぐべからずは、ほとけ、あに正覚をなり給へしや。われら又往生をとげましや。われらが往生はほとけの正覚により、仏の正覚はわれらが往生による、若不生者のちかひ、これをもてしり、不取正覚のことば、かぎりあるをや、云々。



『登山状』は『元久法語』とも呼ばれるように、専修念仏への弾圧が迫りつつあった元久の頃、法然(七十二、三歳)が弁明のために聖覚に執筆せしめたものといわれている(註27)。この美文調の法語を法然自身の執筆とは考え難いが、唱導家聖覚の文章とするならば矛盾はない。また「定善・散善・弘願の三門」の名目が問題となるが、既に述べたように、『選択集』以後の法然なら、「定善門・散善門」という名目を用いない筈であるが、聖覚が書いたのであれば納得できる。『登山状』における定善・散善・弘願の三門は『三部経大意』のそれと全く同じである。聖覚は恐らく『三部経大意』を念頭において作文したのであろう。なぜなら、『三部経大意』自体、唱導の文章(註28)であるからである。法然は聖覚が古い名目を使用したけれども、内容が間違っていないから許容したと考えられる。「弘願」が特に強調されているのは、この頃、法然が衆生の側の念仏行よりも、仏の大慈悲である「弘願」に強い関心を懐いていた事の反映であろう。このことは元久の頃、専修念仏に対する旧仏教側の圧力が高まったことによる法然の苦悩を反映しているのではないか。また、「衆生往生=仏正覚」の思想が表明されているが、これは後に西山教義で強調されるところである。



(9)『醍醐本』第三篇「三心料簡事」(註29)



一三心料簡事
疏の第四に付く仰せに云はく。

〔1〕先づ浄土には悪の雑はる善は永く以て生ずべからず。知るべし。ここを以て、『玄義分』には「定まじは即ち慮を息めて以て心を凝らし、散は即ち悪を廃し以て善を修し、この二行を廻らして往生を求願す」文。また『散善義』に云はく「上輩上行上根人は、浄土に生ぜんことを求めて貪瞋を断つ」文。然れば則ち、今この至誠心に中に嫌ふところの虚仮の行とは、余善諸行なり。三業精進、勤むといへども、内に貪瞋邪偽等の血毒雑はる故に、雑毒の善と名づけ、雑毒の行と名づけて往生不可也と云ふ。ここを以まじて『礼讃』の専雑二行の得失の中に、雑修の失に云はく、「貪瞋諸見煩悩、来たりて間断する故に、これらの雑行を廻らして、直ちに報仏の浄土に生まれんと欲ふは、尤も不可と嫌ふ道理なり。然るに身口の二業を以て外とし、意業一つを以て内とせむとは僻事なり。既に「三業を起こすといへども」と云ふ。豈に意業を除かんや。又、虚仮とは誑惑の者と云ふ事、僻事なり。既に苦励身心と云ふ。又云はく、「日夜十二時、急走急作して頭然を炙ふうる者」と文。云何が仮名の行人、かくの如くならんや。正にこれ雑行の者なり。


〔2〕次に選取する所の真実とは、本願の功徳、即ち正行念仏なり。ここを以て『玄義分』に云はく、弘願と言ぱ『大経』に説くが如し。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、皆、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」と云々。


『醍醐本』「三心料簡事」以下の二十七法語の由来に就いては、法然(七十五~九歳)が勢観房源智に勝尾寺で語った法語であると、我々は考えている。このことに就いては、いずれ別稿で論じる(補註2)。法然は『三部経大意』では、自力を以て定散等を修して往生を願うことは凡夫には不可能であると説いたが、「三心料簡事」では、先ず〔1〕では、悪がまじわらざるを得ない自力の善(定散)は虚仮の行として厳しく否定(奪釈)されている。次に〔2〕では、「選取する所の真実とは、本願の功徳、即ち正行念仏なり」と、雑行(自力の定散二善)に対する正行の念仏とは本願の功徳であると他力を強調している。充分に言葉を尽くして説かれていないので明快ではないが、この正行念仏とは衆生の側の「行」としての念仏ではなく、仏の側の本願の顕現であることが説かれている。したがって『三部経大意』の至誠心釈と『醍醐本』の「三心料簡事」は同じ思想構造を持っていて、しかも「三心料簡事」の方がより発展した思想である。『選択集』の目的は、末世の衆生が行える「行」は何かを究明し、「口称の念仏一行」に到達したものであるが、『十七条御法語』、『登山状』、『醍醐本』の「一期物語」は、衆生の側の唯一の行としての念仏を追求した『選択集』と異なって、仏の側の「弘願」に大きな比重をおいて説いている。殊に、『醍醐本』「三心料簡事」は、正行である念仏は本願の功徳であって、これこそが真実であると説いて、言外に衆生の側の真実、功徳、行を否定(奪釈)している。この趣旨は次の『述成』と共通である。



(10)『述成』(註30)


佐伯良雄氏らは、『述成』の第一から第八までは證空の自筆鈔執筆時代の初期に成立したのであろうと結論した(註31)。第一の文の全文を掲げる。特にその文の最後の部分の解釈が問題となる。但し、(蓮生)(證空)などは、我々が読者の便宜のために付加したものである。


第一


(蓮生)「序分義の始め、証信序の法門終りて後、別に尋ね申す。


今、往生は南無阿弥陀仏と心得て候ひけり。是に付きて、南無を彼の釈に帰命と候。帰命は、命を帰すと書きて候。されば、正しく願体に帰し候ひぬるものならば、帰命の謂れ立つべく候。其の帰命の謂れ立ちぬる姿を云何にしてか知り候はんずるぞ。唯南無阿弥陀仏と申して疑ひ無く往生し候べきぞ、と思ひ定め候べきか。又止悪修善の道理をも控へなんとしたる分斉にて、念仏申し候はんずるか。帰命の心の立ちたる色とは、如何様に心得べく候やらん。又往生一定と思ひ候はば、命を惜まず、一向念仏申さんずるぞ、帰命の心立ちたるぞと思ひ定むべきにて候やらん。」


御答ありて曰く。


(證空)「是に殊勝の事あるなり。左右なく申すべきにあらねども箇程かほどの御尋ねに付きて、申ささうでもあるべからず。念仏往生と申すにつきて、諸師の心と、和尚の心と大いに替るなり。諸師は、唯六字の名号目出度き事を嘆じて、衆生が唱ふる功徳にて往生を得るぞと釈し、或は又、三字を法報応の三身に配て、空仮中の三諦にも配て、或は、法身・般若・解脱の三徳にも配てて釈すれども、南無の体を釈することは、すべてなきなり。


然るに善導一師は、阿弥陀の三字を委しく釈せずして、南無の二字を釈し給ふなり。此の南無を帰命と釈せらるるなり。帰命につきて故(法然)上人、観仏・念仏の両三昧あるべしと料簡せられて、その観仏の帰命は機に付き、念仏の帰命は仏体に付きて料簡せらるるなり。


此の帰命といふは、命を仏に奉る意なり。されば此を釈するに、衆生の重ずる所、命に過ぎたるは無し、此の法財を仏に献ずと釈せられたり。されば、先には、衆生の方より命を惜まず仏に帰する事にてあるべきなり。是を帰命の体とす。


是に付きて、我等が心に引乗せて分別すれば誠に命を惜まず仏に帰するかと覚ゆるに、口には南無阿弥陀仏と云へども、心には命を惜みたる故に、観仏の帰命は立たざるなり。是を以て、命を惜まずして往生す、といはば、我等が往生は思ひ切るべきなり。


然るに、念仏の帰命の、仏体につきて云へば、先づ彼の阿弥陀仏の覚体にこの命を惜みたる我等凡夫を自ら摂して成仏したまへる故に、今始めて命を帰せざれども、彼の仏体に往生は成ぜられけり、と意得べし。これすなはち、一心廻願往生浄土為体なれば、衆生の往生を覚体に成じ玉へるなり。


南無といふは、正しき我等が体なり。即ち三心なり。故に此の南無が阿弥陀の体に具せられて名号となるぞ、と心得る所が、往生にてあるなり。是くの如く心得る時、命を惜めば往生すまじきにては無きなり。此の謂れを心得る所を、即便往生と名付くるなり。されば正しく往生の体は此の三心にて、南無阿弥陀仏に極まるなり。


他力といふは機によらぬ事なり。機によらねば、一向仏体に付くるなり、故に南無を具して覚体を成じたまへるところが正しく他力往生にてありけるぞと心得る外には、三心具足の色、別にあるべからず候。されば能く能く我が身の有様をあきらめ持つとも、命を惜みたる身ぞ、と思ひ知るべきにてあるなり。今、別願の体が正しく此の機を自ら仏体に具足したまひける故に、我等が往生は他力にて成ずるぞと申すなり。それを、我と命を惜まぬ位になりたるこそ帰命とはいへ、と云ふは僻事なり。若し爾れば、ひがごと惜まずば往生し、惜まば流転すべきに当れり。故に無有出離之縁の信を思ひ切りたる機の上に、往生すやせずやといはば打ちまかせては往生すまじき、といふべき所なり。是に今、命を惜みける者を摂取しここたまひける仏ぞと心得る所を、今の信心とはいふなり。命を惜まば帰命の謂れ立たざるにはあらず、かかる機を捨てたまはず来迎引接したまふ所を、以無縁慈摂諸衆生とは説かれたるなり。


此の謂れを心得ての上には、又機に立ち帰りて、形の如く、分々に帰命の心必ず立つべきなり。 かた是れ先師(法然)上人の口伝の義なり。(證空)聴聞二十余年が間(法然)上人に付き随ひ奉りたるに、二十年の後、此の法門を授けられたり」と(西山上人)正しく書き付けられたり。


證空が法然からこの口伝の義を授かったのは、承元三年(1209)から承元四年(1210)頃、法然七十七、八歳のことであった。その頃、證空は法然の指示によって磯長の太子廟の願蓮に天台学を学んでいたのみならず、法然の滞在所、摂津の勝尾寺に通って、法然最晩年の教義を伝授されていたのである。證空が実信房に明かしたこの教義は、證空が入門して二十年目に、勝尾寺において法然から授けられた晩年の己証である。「観仏の帰命は機に付き、念仏の帰命は仏体に付きて」「他力といふは機によらぬ事なり」「南無を具して覚体を成じたまへるところが正しく他力往生にてありける」と法然が述べたことは、「念仏三昧」から衆生の側の行の意義が否定され(奪われ)たことを意味する。(図4)


『選択集』では、「ただ念仏三昧の一行を以て即ち阿難に付属し」とあり、まだ『選択集』の「念仏三昧」には行の意義が残されていたから、勝尾寺で法然の奪釈が一段と進んだことは明らかである。『選択集』で説かれた念仏は、すでに衆生が行う「善の意義」が奪われているが、晩年になって、法然は勝尾寺滞在中に更に衆生が修行する念仏から「行の意義」をも奪った。その結果、法然の念仏は行でもなければ、ましてや善でもなくなった。そして浄土門の諸行である定散二善十六観門は自己の凡夫性を自覚して如来の弘願を能詮する「観門」となった(図5のⅠ)。また、「此の謂れを心得ての上には、又機に立ち帰りて、云々」は弘願から観門を開く開会の原型である(図5のⅡ)。


この教義はとりもなおさず、従来、證空の独自の教義であるとされてきた三門(行門・観門・弘願)の中の観門と弘願のことである。もっともその内容は證空が『自筆鈔』において展開した多彩なものではなく、素朴なものであるが、このことはかえって證空の「三門」が法然晩年の思想を発展させたものであることを示している。『述成』に見られるように、法然は善導の『観経疏』によって「観仏三昧」を衆生が仏に命を捧げて帰命するような行善であると規定した。そして、凡夫には仏に命を捧げるような信仰は不可能であると説いた。この態度は法然が曽て自分を三学非器と嘆いて聖道門を捨て、浄土門に帰入したことの延長線上にあることは明白である。だから證空の「観門」は法然の仏道実践に基づく法然の思想に由来するものであると云える。


また、法然が弘願を仰ぐ念仏に善の意義も行の意義も共に否定した(奪った)のであるから、初めて絶対他力の概念を創出したのは法然であって、親鸞ではないと思われる。證空は晩年に自己評価として、常に円空に「我所立ノ法門ハ専ラ故上人相承ノ外ニ別ノ秘曲無シ。但シ其ノ大旨ヲ得テ委細ノ料簡ヲ加ヘタル事ハ我稽古ノ功也」(註32)と語ったように、独創的な思想を創出したのではなく、総て基本的に法然の教学を基礎として、その上に、法然が行なったように、『観経疏』を研究して、法然浄土教学を完成させたのである。







まとめ



法然の教判は『三部経大意』→東大寺講説『無量寿経釈』→『逆修説法』→『観無量寿経釈』・『阿弥陀経釈』→『選択集』→『十七条御法語』・『登山状』・『醍醐本』「一期物語」「禅勝房の問い」→『醍醐本』「三心料簡事」・『述成』と発展しつつ進んだことが分かる。すなわち、法然は『選択集』において末代の衆生の唯一の行として、すべての仏法の中から「念仏の一行」を抽出した。その念仏は既に善根功徳としての意義を奪われていたが、まだ仏に選択されたところの衆生の「行」であった。これは「選択念仏」と呼んでよいであろう。『選択集』において「二門・二行判」が完成したのである。


しかし法然の思想はその後も進展して、流罪を経て勝尾寺に滞在中、法然は念仏から行の意義をも否定(奪釈・別)した。ここにおいて、念仏三昧は行でも善でもなくなり、衆生の側の「はからい」としての意義は一切否定された。これは「弘願念仏」というべきであろう。如来の弘願の前では、衆生の称える念仏は、これを廻向して往生する「行・善」ではない。法然は「絶対他力」を樹立したのである。


しかし、念仏自体には通仏教的意味(与釈・惣)において、行でもあり善でもある側面は依然としてあるから、法然によって奪釈された「行善としての念仏」は観仏三昧として、「浄土門の諸行」すなわち定散二善十六観門である「観門」に移されて、「大乗意義の念仏」となった。そして浄土門の中の諸行である定散二善十六観門は衆生に弘願を説き顕わす、或いは衆生を弘願に導き入れる役割(「観門」)を果たすことになった。


以上のように法然の教判論の思想史を最初から最後までたどることによって、法然の最晩年の勝尾寺での教判が「聖道門の諸行」「浄土門の諸行」「弘願」の三門であることが明らかになった。これらは證空が『自筆鈔』において用いた「行門」「観門」「弘願」に相当する。「行門」「観門」「弘願」という名目は證空の創作であると、西山派の内外を問わず信じられているが、證空がこの名目を造った証拠はない。だからこの名目も法然によって創られた可能性がある。


また、法然が念仏から善の意義も、行の意義も、二つながら否定(奪釈)したことは絶対他力の教義を創立したことを意味する。だから「絶対他力の教義」も法然によって樹立されたのであり、親鸞独創の教義ではないと思われる。


併せて、以上の論考により、法然が生涯を賭けた求道を体系化するときに駆使した論理は、天台の与奪門であったことが分かった。





註釈
註1稲吉満了・吉良潤・稲田順学・加藤義諦「『三部経大意』『逆修説法』『三部経釈』『選択集』の成立順序」『深草教学』第一三号。
註2『大正蔵』第四六巻、一三七頁c、元漢文。
註3『藤堂恭俊博士古稀記念浄土宗典籍研究資料篇』二一七頁。
註4『定本親鸞聖人全集』第六巻、写伝篇2所収『三部経大意』一四頁。
註5加藤義諦・吉良潤・稲田順学「善導はいつ法然の夢に現れたのか」『深草教学』第一三号。
註6註(1)参照。
註7『昭和新修法然上人全集』(以下『昭法全』)六七頁。
註8『昭法全』二三八頁。
註9『昭法全』二四一頁。
註10『昭法全』二五八頁。
註11『昭法全』二六一頁。
註12『昭法全』二七〇頁。
註13『昭法全』九七頁。
註14『昭法全』一四七頁。
註15註(1)参照。
註16『昭法全』三一〇頁。
註17『昭法全』三四一頁。
註18吉良潤、稲田順学、稲吉満了、加藤義諦「『選択集』を構築する天台与奪門」『深草教学』第一四号。
註19『昭法全』三二七頁。
註20註(18)参照。
註21『昭法全』四六八頁。
註22『選択集』に一箇所だけ「弘願」が出てくる。第九章「むかし煩悩に因りて善心を壊乱し、福智の珍財竝に皆散失す。久しく生死に流れて、制するに自由ならず。恒に魔王のために僕使と作りて、六道に駆馳せられて身心を苦切す。今善縁に遇うて、忽ち弥陀慈父の弘願に違せず群生を済抜したまふを聞きて、日夜に驚忙し、発心して往くこと願ず」『昭法全』三三五頁。
註23註(18)参照。
註24『藤堂恭俊博士古稀記念浄土宗典籍研究資料篇』一六八頁。
註25『藤堂恭俊博士古稀記念浄土宗典籍研究資料篇』一七三頁。
註26『昭法全』四二一~四二三、四三二頁。
註27『法然上人行状絵図』第三二巻。
註28末木文美士「源空の『三部経大意』について」『日本仏教』第四三号。
註29『藤堂恭俊博士古稀記念浄土宗典籍研究資料篇』一八四頁。
註30森英純編『西山上人短篇鈔物集』七五頁。
註31佐伯良雄、萩原勝学、稲吉満了「證空上人短篇鈔物『述成(述誠)』の成立時期」『深草教学』第11号。
註32『深草抄』上、『深草叢書』第四編巻二、四二丁左。
補註
(1)『法然上人研究』第3号、1994年。
(2)稲田順学・吉良潤・稲吉満了・加藤義諦「源智が法然から『一期物語』を見聞した時と場所」『深草教学』第14号、1994年。

 


 

 

證空の三門(行門・観門・弘願)は法然晩年の教説の画像1

 

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