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〔論文〕『超』弱体化時代の、大学生の精神構造 ~生い立ちから探る彼らの深層~

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石原 峰雪 (いしはら ほうせつ)

【筆者】 石原 峰雪 (いしはら ほうせつ)

 

専門領域:心理学・精神医学・教育学をはじめとする学際領域
三重大学教育学部・医学部を研究フィールドとし、愛知工科大学、県立愛知病院がんセンター(岡崎)、津島市民病院、半田市立病院などで、心理学・人間関係論・精神医学・人間工学・情報リテラシー等の講義を担当する。
研究分野は、子どもの発達、脳の発達と感情、ストレス、カウンセリングなど。大学における講義の質の向上を目指す「FD活動」にも取り組む。地域活動としては、西尾市教育委員会 学校教育推進・評議委員長(西尾市立福地南部小学校)を務めるとともに、各地で、心理、精神、教育、日本文化といった領域の講演活動を行う。
教員家庭に生まれるが、大学時代に、看病していた祖母を、抱き上げた腕の中で亡くすという経験から、お経を読みはじめる。愛知県西尾市 観音寺・常光寺住職。

 

 


 

 

ファカルティ・ディベロップメント 講演会

2014年10月28日(火) 16時45分~18時15分 AUTホールにて


『超』弱体化時代の、大学生の精神構造  ~生い立ちから探る彼らの深層~

石原 峰志(心理学・精神医学)




1. はじめに


ある中堅サラリーマンの方が言った。「最近は、若い人よりも年長者の方が、いろいろ気を遣ってますね。」と。日常生活の様々な場面で、若者は、目の前に誰がいようとも、堂々と自分の思った事を、躊躇もせず口に出し、年長者は、周りに気遣い、こういうことを言うと嫌われるんじゃないかと考えてみたり、言って嫌われるならいっそ我慢しておこうとか思ってみたりしている。


その人は、上司に思い切って問いかけた。「私たちが入社したての頃は、あなたは今よりもずっと厳しかったが、今はどうして新入社員にそんなにまで優しいのか。」と。上司いわく、「お前たちの頃は、一日も早く一人前になれるように叩き上げて鍛えたものだ。でも、今の新入社員たちは、一日でも長くウチの会社いてもらえるようにしなければならない。」とのこと。「厳しい事でも言って、もし辞めてしまったら、お前はその分まで働けるか。」と問い返され、「とんでもない。」と答えたら、上司は、「だったら、新入社員は大事にするしかない。お前も気をつけろ。」と念押しされたそうだ。その人は、今日も何か腑に落ちないまま、その会社に通っている。


何かあっても周りの大人が責任をとる。大人が気を遣って何も言わず、若者は堂々としている。果たして、周りの大人の気遣いに、若者は気づいているのだろうか。やがていつか、その若者達も全ての責任を負わなければならない時がやって来るはずである。今のところは今のままでいいのかもしれないけど、先行きどうなるのだろうか。みんなそうだったのだろうか。


親も教師も、学生より年長なのだから、順番で行けば先に逝く。「その時」にせめて若者達が自分たちの力でやっていけるように、次の世代を育て上げる事が、前の世代である親や教師の責任であると私はいつも思うのである。


 


2. 問題提起として


どんな立派な教育理論も、シラバスもカリキュラムも、それを受けとる学生に合っていなければ効果は激減します。また、合っていても、伝える方法を間違えれば、何にも伝わりません。相手をきちんと知らなければ伝え方も間違えます。「ついて来れない学生は知らない」、とか、「わからないのは学生が悪い」、で果たして良いのでしょうか。今回は、まずは何よりも学生の実態を知っていただくところからお話しさせていただきたいと思います。


現状を知ると、かなりがっかりされる先生もおられると思いますが、今回は、学力的、あるいは、精神的「脆弱性」の発生要因を事例として列挙させていただく形となることをご承知いただいた上で、現実を直視し、各先生方で、ぜひ学生を指導していくための「突破口」を見つけていただきたいものだと思います。


各ライフステージにクローズアップされる影響の大きいと思われるテーマを挙げ、各ライフステージにおける学力の問題は必ず取り上げることとした。


 


3. 小学生時代 ~先送りされる基礎~


小学生という時期は、人間としての基盤や生きていく基礎力を身に付ける時期であることはいうまでもないが、ここで云わんとしていることは、決して高尚な精神論などではない。あくまでも、大学生くらいまでの将来を見渡した時に必要な、人間関係の平凡なスキルや、基礎的な学力とその習得方法といった、実質的というか実務的というか、日常的な技術のようなものだと思っていただきたい。


これから始まる長い学校生活を乗り切るための、そのような意味での基礎が育っているとは到底言い難いのである。


1) 家庭像 ~祖父母は「会いに行く人」に変わった~

そもそも、おじいさん、おばあさんというとみなさんはどんな人を思い浮かべるであろうか。手拭いを頭にまとい、腰が曲がり気味で乳母車を押して、畑で草取りに行く、そんなおばあさんを想像されているとしたら大間違いである。それは、昭和時代の、いわゆる大おばあさん(曾祖母)であり、現代のおばあさんは、もっと若く、真っ赤なコンパクトカーを乗り回し、若い夫婦とは別の、高層マンションに住む、スマホを持ったアクティブな人を想像するほうが適当なのである。


孫にあたる小学生とその祖父母は、昭和時代と違って、同居していないケースも多い。昭和時代なら、両親が不在の時は、両親の帰宅までは両親に代わって生活面を支えてくれていて、帰宅した後の着替えや遊びに行く前に宿題をするなど家庭内のルールを守らせるとともに、相談相手になってやったり、言うことを聞かないときは叱ったりしたりしてくる存在であった。


それが同居していないと、どうなるのか。大した差はないと考えると大間違いで、「会える時に、全力で愛情を注ぐ」という現象が起こるである。毎日のように一緒にいれば、日常的な細かい注意をするだろし、悪いことに気づけば、強く叱るときもあることだろう。しかし、次に会えるのはいつかと考えれば、会っている瞬間に全力で愛情を注ぐ。下手に注意して嫌われれば、次に会う時期が遠ざかってしまうかもしれないのである。


子どもの成長という視点から見て、祖父母は、両親が気付かないようなことでもきちんと注意してくれる存在から、両親の何倍もの愛情を注いでくれる存在に変わったことは確実で、ここからは規律や厳しさなどは到底育たないようである。


2) 学校生活 ~華々しい行事、設備と現実のギャップ~

現代では、特に小学校での、家族や地域の人々を招くような行事は多い。行事をだけ見ると、実に非の打ちどころのない、素晴らしい完成度を誇る子どもたちの活躍ぶりである。先生方と子どもたちがこの日のためにどれだけの努力と時間を費やしてきたことか想像はつく。


しかし、音読集会で大成功をおさめたはずの学校の子どもが、一人一人教科書を読ませると、とてつもなくゆっくりでしか読めなかったり、ゴツゴツであったり、声すら出せない子どもが多数いるのに違和感を覚える。「食育」の研究発表をした学校の子どもが、実際は給食後の配膳室に行くと、好き嫌いで残した残飯で廃棄が山のようにあったりする。「歯磨き」の指定校の子どもが、歯磨き以前にハンカチを持っていない子が多数いたり、トイレも清潔に使えていなかったりする。


行事と日常は別問題なのか。いや、日常生活を高めるための行事でなければ、それに費やす時間や労力は、漢字や計算を一つでも多く覚えるために使ってくれたほうがどれだけ後の為になることだろうかと思う。


最新のパソコンが、子どもたちに一人一台教材として準備されていても、マウスを握って、ほんの少しクリックできる程度であったり、外人講師による英語授業を取り入れていても、アルファベットすら、正確に書けない子どもたちが多数存在する小学校が、結構な数存在するという現実を、後発で教えることになる教員は必ず知っておく必要がある。「小学校でやってきたはずだから」は絶対禁物である。


3) 学力 ~この時点からすでに、インプットの仕方が身に付いていない~

大量に覚えなければならない漢字や用語があった時に、どうやって覚えたらよいか。繰り返しノートに書くとか、声に出して何回も読むとかして克服しようとした。昔ならノートで足りなければ、広告の裏に書いた。そんな方法は、いつ身に付けたのかといわれても、子どもでもいつの間にか当然のようにわかっていた。


一日で覚えきれない量ならば、何日もかけて書きまくる。自分の頭がちゃんと覚えているか、答えをかくしておいて試すことも自分でしていた。テストでどうしても思い出せない漢字が出た時は、しまったもっと早くから取り組むべきだったと内心で悔しがった。


そんな当たり前の行為が小学生時代に身に付かないまま中学生になる子どもが続出している。むしろ、頭では理解しているのかもしれないが行為として追いつかないのかもしれない。


繰り返し書くとか読むという宿題は小学生には、本当に大切だ。身に付けていない子ほど、書くとか読む行為が遅いし、精神的にも負担は大きくなるのだろう。やりたくないと言う。もちろん面倒な行為は、大人も含めてやりたい人は多いはずはないが仕方ないからやる。それが我慢できないからやらない。やらないから遅くて、また、やる気が起こらない。


子どもの頃、繰り返しやるという習慣を身に付けなかった人の、後の代償はからり大きいし、身に付けさせなかった周りの大人の罪はかなり大きいと思われる。身に付けている人にとっては、別にどうってことないことなのだから。


 


4. 中学生時代 ~大差がつく生徒たち~


小学生の時身に付けなかったツケと、自ら試行錯誤する習慣が育つ機会を得ずに卒業を迎える、そんな中学生は、とても可哀そうである。どうしてそこまで心配するかといえば、そういう子たちは、一度の挫折で、一機に再起不能に陥るケースを多く見ているからである。


勉強でも、スポーツでも、芸術系でも、自分が取り組んでいることに対して、自分のどこが悪いのか、自分で直すべきところを自分から発見し、その直し方、克服の仕方も自分で工夫し、トライ&エラーを繰り返す。小学生の時、培ったことを中学生になってステップアップするということは、まさにその繰り返しから得られるはずであるのにできない。その理由は、どこにあるのだろうか。


1) 主体性 ~すべての領域にかかわる問題~

ものすごく勉強のできる子がいる。勉強以外でも、何かものすごい特技を身に付けている子もいる。そんな能力を身に付けていれば、そうでない子達よりも、他の部分でも勝っていたり、より高い人間性を期待してしまうことも無理はないことだが、最近ではその期待はかなりの確率で裏切られると思ってよい。


人間が他の人とかけ離れた能力を持つということは、何か他の人とは別の環境に置かれなければ、たかが十数年の人生の中でのおのずと身に付くことではないし、他と大差がつくわけでもないはずだ。


結局ほとんどの場合、親が幼少期より、お金をかけて、習い事をさせ、そこの先生に教えられたことを、吸収してきたに過ぎない場合が多い。この頃、その種類も多彩である。


地域最優秀の高校を受験する子たちが、芸術鑑賞の時間に平気で寝ていたり、学校の先生を馬鹿にしていたりする。難解なものにも関心を示すとか、幅広くものを見るような人間性、言葉遣い、そして、モラルなども、1つの能力に長けているからといって、人としての他の部分もそれとある程度は比例していると期待する時代は終わりつつある。


2) スポーツ ~決して捉え間違ってはいけないスポーツマン像~

青春時代のスポーツに打ち込む姿は、何かまた別格の人間性というものを、自然と感じる傾向が年長者にはないだろうか。1年生のうちから選手であると聞けば、さぞかし運動神経が良いばかりかどんなに努力家だろうと考えるのは自然であるが、少子化で野球選手の9人が上の学年だけの部員数では揃わない場合もあるなどということは気づきにくい。また、通知表によると2年生からキャプテンをしていたという経歴も、当時3年生がいない部活であったというケースもある。


また、「学校外」でもサッカーチームに入っているという場合も、スポーツ好きであったり、練習熱心なのは確かかもしれないが、「チームに入って」やっているということは、もう一つ部活に入って、監督やコーチの指示のままやっているだけであったりする。学校から帰った後、自分のフォームなどを分析し、一人公園で暗くなるまで弱点を克服しようと努力していた時代のスポーツマンとは性質が随分異なるということを、次にその子を受け入れる学校の指導者は、わかっておく必要がある。


3) 感情表現と想像力 ~ダイレクトに言わないと通じにくい~

良いことか悪いことか、最近では小中学校の先生は生徒を呼ぶ時「○○さん」と呼ぶことが多くなってきた。男の子でも「○○君」はいけないそうだ。不平等なのだそうだ。違和感を覚える人も多いようだが、いつかそれが当然になる時が来るのだろうか。先生が怒る時もご多分に漏れず、「○○さん! だめでしょ!」優しく伝えることとなる。怒りの度合いによって呼び方や口調が変わる時代は終わりつつある。だから相手の感情を読み取ることが苦手になっているのではないかと思う。


いじめの問題も生徒一人一人は、いけないとわかってやっている。この背景には、自分のしている行為がいじめだとは思っていないケースも多い。いじめは、していないと言うが、通りすがりに舌うちはした。呼ばれても無視した。班作りで仲間外れにもした。けれどいじめてはいないという。それらの行為がいじめだと本気で結びつかない生徒が出てきている。「いじめはしない」ではなく、「舌打ちしない、無視しない、仲間外れにしない…」と一つ一つ個々に禁止しないと、自分の行為がいじめなのかどうかよくわからなってきているのではないか。そこから相手の内面を思いやるような心情は発生し難い。「街をきれいに」ではなく、「道に、ゴミを捨てない、ガムをはかない…」というように、個々に言わないと結びつきにくい人たちがいる。


4) 学力 ~小学生時代からの根深い問題~

小学生時代に、繰り返し書いたり読んだり、日をあらためて書いたり読んだりを続ける方法を身に付けていない生徒は大変だ。中学で学年が進むにつれて覚えることが増え、継続的に行う集中力や忍耐力がもともと備わっていないか、養われて来なかった生徒は、勉強を放棄するか、成行きに任せるしかなくなる。


辞書がうまく使えないばかりか、説いた問題集を、答えを見ながら採点することすら間違いだらけになる。間違えた問題を解説を読んで理解するなどという行為も一部の優秀な生徒を除けば、実際にできていない。細かく確認しない先生では、それに気づきすらしない。「解説をよく読んでおくこと」と促しても、大半の生徒が、確かに読みはするが、よくわからない部分で立ち止まったり考え直したりして、できるまでに至る生徒は、驚くほど少ない。教員はもう一度解かせてみるとよくわかる。首を縦に振った生徒が想像以上にわかっていないことがわかるはずだ。


「明日小テストをやることにする!」と啖呵を切ってみても、テストの回数を増やすことで生じるのは、方法が身に付いている子たちの苦労であって、努力の仕方がわからない子が、新しい自分の勉強方法を発見する機会が増えるわけではない。あくまで、そのベースが、小学生時代に構築されなかったのだから。


 


5. 高校生時代 ~脆弱性の完結~


地域2番手位までの高校に入るか、3番手以降の高校に入るかで、高校生生活は、運命を分ける。前者は、入学した先で、強豪同士が戦い合い、食うか食われるかの熾烈な受験戦争へと突入する。反対に、後者の高校に入った生徒は、高校生活はバラ色で、遊びに恋愛に、バイトに、やりたいことはすべてやれる。大学や専門学校に進学するにせよ、両親がどんなに頑張っても入れなかったような、かつての高嶺の花の大学も、そんなに遊んでいて大丈夫かといわれつつも、3年になって少し机に向かえば、これまた少子化の影響で、希望以上の大学から推薦が来てすんなりと合格し、周りを驚かせる。強豪高校に入って今だ苦難の道を進んでいる同級生よりも数か月早く進路も決まって自動車学校やバイトに励む。


ここまでで、一旦個々の生徒にとっての世界観が完成すると言ってよい。どの位の自助努力があれば生きていけるか、今までの人生観の中で、一種の発達の終焉を迎えるということだ。


大学側としては、何としても前者の学生を一人でも多く選抜したいものだ。


1) 社会性 ~周りが自分に合わせてくれる~

発達心理学の領域では、最近では人は生涯にわたって発達するものという意識に変わりつつあるが、一応、子どもの段階としては、完結が近づく。もちろん、こんな段階で発達が終わってしまっては、日本社会は未熟な大人であふれてしまうことになるので発達は続いてほしいものだ。


生活面における注意は、子どもの頃でも十分になされてきたとは到底言い難い世代だが、ますます大人という建前で、注意はされなくなる。


また、やはり、少子化の影響は大きく、大人として尊重されるとともに、結局、周りの大人が、若者に合わせてくれるという日常の中に身を置くことになる。親戚が集まるような場面でも、手伝いもできなかったり、やってないことを見られていることに気づくこともなく、集まったおば様方の御心中を察すれば心苦しいばかりではあるが、なぜか、年長者は若者を褒めちぎるのである。


高校生の段階では、最終的には、自分というものの立ち位置がわからないし、むしろそういう状態にいることにすら気づかずに高校生活を終える。下手をすると人生こんなものなのだというぐらいの達観の中に身を置いてしまう場合が往々にしてある。


2) 生きる方向性 ~父性が薄れる家庭~

ある高校の校長が、入学のオリエンテーションで御父兄に言い放った。「隣に座っている御子息達に、自分の意志があると思ったら大間違いです。何にもわかってはいません。今日から親として、将来、ああしろこうしろとどんどん押しつけて下さい。良いと思えば従うでしょうし、嫌だと思ったら、親を乗り越えれば良いだけの話ですから。大いに衝突し合って下さい。」現場の教師は、理想ばかり言っていられず、卒業までの3年間という限られた時間の中で、何とか成果を出さなければという思いの上での発言であったのだと思う。親子は、将来に関する具体的な話し合いの時間をもっと増やさなければということなのだ。


カウンセリング場面でも同じようなことがいえる。進路に迷っている子どもの親に限って、はじめのうちは母親しか登場してこないのに、ようやく登場したと思った父親が、大抵口にする言葉はよく似ていて「子どもの人生だから、子どもに決めさせたい。子どもが、自分が一番良いと思う人生を歩ませたい。子どもの人生なのだから」という趣旨のことをいう。そういう時にそんな発言が何も役に立たないどころか余計に子どもを迷わせてしまうことは明白で、ここで必要なのは、親としてはこうしてほしいという方向性だ。その子どもの迷いは、今まで親から何の指針も与えられて来なかった結果として発生している。子どもがそういう状態に陥っているのにまだそんなことを親が言っているのだから、一向に子どもは、迷いから抜け出せないのだ。積極的にこうして欲しいと言えないのなら、せめて、ウチは、ここだけはゆずれないという「路線」だけでも、子どもに提示する必要があるのだ。


3) 学力 ~ツケが一機に消える人・増える人~

たまっているツケは、必ずいつかどこかで最後には、自分で何とかしなければならない時が来る、というのが当たり前の考えであるが、実際はそうなっていない。


今まで培ってきた勉強の仕方において、自分の悪い点を見つけて、そこを直すために不断の努力をしなければ、卒業が見えて来ないのは、やはり地域2番手位までの高校に入った上位者だけなのである。


あとの子たちは、高校に入った瞬間今までのツケが、一機に消えることになる。それどういうことかというと、中学で真ん中くらいの成績とっていた生徒は、その子のレベルの高校なら、中学生時代ほど勉強していれば、ほぼ学年トップクラスに入り込めてしまうという現実がある。これが「一機にツケが消える瞬間」なのである。


テスト週間なのに、教科書を見直さず、参考書も出さず、さらに、授業ノートさえ復習しなくても、試験用に用意された、わずか数枚のプリントさえ暗記しておけば、追試をくらうどころか上位に食い込めてしまう。特に苦手な科目があったとしても、必ず先生達が卒業させてくれるというイメージである。決して下位校の話ではなく、地域2番手位の高校でさえも大いにそのような傾向はある。


大学や専門学校に入って、どうしても単位が取れないとか、卒業がかかっているのに、何回試験をしても改善が見られない場合、「一体あの学生はどうなっているのでしょうか」といった先生方の相談を時々耳にする。学生を責め立てても、どうしてよいかわからないというのがその学生の本音なのだから、何か違った形のアプローチで、手を差し伸べなければ、その状態からは永遠に脱出できない。


どんな大学や専門学校にも、そういうタイプの学生は、結構いる時代になったことを教員は知っておかないといけないと思う。その根っこは、高校時代にあることは、明白である。


6. 大学生時代 ~脆弱性の露呈~


大学は、学生を集めることも大変な時代になったが、入学後の指導もかなり大変である。今までよりも、いろんな意味で完成度の少ない学生が入学してきていて、限られた期間の中で、社会が要求する水準まで成長させることは至難の業である。しかも、社会が要求する水準は、年々高くなりつつある。


小学生時代から、先延ばしにされてきた、人間教育的な部分も含めて、卒業までに、ある一定の、社会人としての完成に至らなければなければならない。結構、根は深い所にあることは間違いないので、希望が持ちにくい。


カウンセリング場面や学校を訪問したりする中で、子どもたちの精神面での低年齢化は急速に進んでいることを痛切に感じる。これは、精神年齢などという大それた基準や、単なる自分のフィーリングではない。先にも述べた、日常生活におけるスキルのレベルの話だ。もちろん、精神的な部分も少なからず含んでいる。全体的に見て、10年位前と比べると、-4歳位で見てちょうど良いと思える。


根拠は、少し前なら、6年生位でしていたサポートを、現在では、中学3年生位で親がしている。中学3年生で15歳位の子から受けていた、将来に対する相談内容が、大学生生活前半位に移行しつつある。「それを解決せずに、高校、大学まで進学してしまったのか?」というような内容だったりするのだ。


本人や親や過去に携わった教員たちを責めているわけではない。各発達段階で、指導すべき責任は果たしてほしいことは、確かだが、社会全体の責任であると思う。


ここでは、大学の先生方から発せられた言葉の中から、頻度が高く、かつ、子どもの頃からの生い立ちと密接な関係があると思われる、以下の現象に、分析を加えることにする。


1)「問題解決能力が低い、自分から脱出できない」という意見について

留年や卒業がかかっているテストやレポートで、何度もチャンスを与えたり、再度取り組む時間も十分与えているに、テストの点数やレポートの質が向上しない場合、学生自身がうつ状態にあるなどの精神疾患の場合を除けば、その科目の勉強方法がわかっていないケースが多い。大人から見るとサボっているかのように解釈してしまったり、危機感の不足のようにとらえられてしまったりするが、話をしてみると、本人は案外必死だったりする。内心ものすごく焦っている。その焦りが具体的な対策行動へつながっていかないのである。


その学生が何につまづいているのか、詳しく話を聞いて、もう少し、登る階段のワンステップを低くして、何段階かに分けないと、ずっと登れないままである。要は、その「階段」が教える側から見たら低く見えても、学生本人から見たら高いのである。


2)「面倒な事に関わらない」という意見

誰でも面倒なことには関わりたくないが、その先に自分にとっての、大きな目標やメリットがあれば、話は違ってくる。逆に、叶えたい夢の手前には、困難や面倒な事態が、多く転がっているのは当たり前のことである。言い方を変えれば、大変な道を進んでまで、あえて大きな夢は追わないということになる。


例えば、海外旅行に行きたかったり、車を手に入れたかったりして、たくさんのお金が必要でも、準備が大変で、責任の重い家庭教師をするよりも、時給が何分の1になってもコンビニのバイトの方が楽で良いと考える。有名大学の近隣だろうが、時給が一般の3倍だろうが、家庭教師人気は急速に落ちている。


3)「大人の援助を大いに期待している」という意見について

小中学校の先生方は、特にしつけなどでは「ソフト路線」をとっていて、厳しいことは言われずに来ているし、勉強という側面だけをとっても、やはり、少子化の影響は大きく、塾や家庭教師の会社からは、お客様扱いされ、新車ディーラーに、車を見に行った時のように手厚く扱われる癖がついている。


高校でも、成績下層部でも点数を取りやすく「工夫」されたテストに慣れていて、たとえ、特に苦手科目があったとしても、先生が必ず最後は助けてくれて、卒業ができる。


要するに、周りの大人は、今までの彼らの人生の中では、いつも自分を助けてくれる親切な人たちであったのである。それが、大学に入ってすべて自力で点数を取れと言われたり、こんなレポートは書き直しだなどと突き返されたとしたら、彼らは、そんな大人に、初めてであったことになるのだ。


現代の若者の多くは、最後は周りの大人が助けてくれるものと思っているし、それが彼らにとっては、当然なことなのである。世の中は全てがそうというわけではないというところから教えなければならないということになる。


4) ダウンしている精神面では、「忍耐力、 想像力、不条理への耐性、向上心」という意見について

今の状況を打開するために、知恵を絞りだすとか、トライ&エラーの精神で何度も立ち上がるとか、目の前の学生にできないとは断言できない。しかし、何事もそこまでやってみたことがないだけなのだ。


その精神を身に付けさせようとするなら、指導する大人が、長期的なビジョンと相当な覚悟で、やってみる価値はある。それを身に付けたところで、彼らのその後の人生で役立つかどうかは別問題である。もちろんそうあってほしいが、もしかしたら、身に付けた根性のようなものは、反対に、現代社会を生きる上で邪魔をする時があるかもしれない。


例えば、ある学生の指導に、教師として問題意識を持ち、だが周りは冷めていて、自分だけが一生懸命格闘していた、そんな学生に数年後に偶然会うと、案外洗練されていたりすると、喜びを通り超えて、腹立たしく思えることがあるのは、私が人間として小さいのだろうか。いくら小さいと思われても、正直な気持ちがそうなのだから仕方がない。冷めていた先生たちや、その時にはその学生をあっさりと処分しようとしていた先生のほうが、私より大人だったのか。


勉強が抜群に良くできたとか、ものすごい集中力を発揮するとか、素晴らしい向上心を抱いていることなどは、人間的な特別な能力で褒めたたえられた時代もあった。先生と呼ばれる人たちは、その対象となっていた人たちだったと思うが、いずれ、学力も、集中力も、向上心も、かつては美徳といわれたような、人の持つ能力は、社会的に見れば、単なる「個性の一種」となる時が来ていると思う。他の人にはない能力を持つことは、決して高尚なことでもなければあこがれられるようなことでもなく、単に個性的の一部として、位置づけられると感じる次第である。


7. 大学生の指導に対する対策編


このような時代に突入してしまった今、これが再びいつか改善されていく時が訪れるとは、到底考えにくい。かといって、絶望してくれとか、あきらめた方が良いと言っているのではない。


何か問題を感じた時、ただ漠然と立ち向かうとか、原因を探りもしないでやみくもに改善策を講じるということは、エネルギーと時間を浪費するばかりで、非合理的である。


今目の前で起きている問題が、社会全体の問題なのか、学校現場特有なのか、自分の学校にだけ起きているのか、あるいは、その学生特有の問題なのか、分けるところから始める必要があると思う。


ある大学の先生は、自分の教え子の3割位が、就職先を4年位で辞めていると言って自分の指導の仕方に自信を失いつつある状態にあったが、その当時の数字でいえば、3年位で辞める人が3割いるのが平均ですとお伝えしたら、少し安心してみえた。知らないということは判断もくるってしまう。まず、全体を把握することは、何事にも第一歩だということか。


ある学校で、傍から見ると、学生に対して何も指導していない先生の担当学生が、私の講義を取った時、ただ一人その学生だけが、後の講義の小テストの勉強をしていて、注意をしても無視をした。さらに厳重注意を繰り返したが最後まで聞き入れなかった。すると、後からその先生自身が謝りにみえて、「社会に出たら、いつか、どこかで、必ず気づく時が来るから、今は見守りましょう」と私を諭されたことがあった。


ほとんどの学生にとって最終学歴となる大学や専門学校で、さらに問題を先送りする裏ワザを見てしまった気がした。美しい言葉に聞こえるが、よく考えれば、「逃避」であり、言い訳になっている気がしてならない。教育者としては、ふさわしい言葉とは思えない。


では、私が考える対策編としては、以下に挙げる3点に尽きると思う。


1) 一人一人の学生に対する査定の問題

教員がこれから教えようとしている内容を、目の前の学生がどれほど理解して進んでいけるか、という予測を立てることはかなり難しい。入試でどのくらいの点数を取っている学生であるとか、一般教養でどの程度の成績を取っているかなどの履歴が、実に比例しない時代になったと思う。まして、立派な伝統ある高校を出てきているとか、こちらの言うことに対して丁寧な受け答えができるからといって、今から教えたい事がきちんと習得できるとか、任せたことをきちんと責任を持ってやってくれると期待すると、「肩すかし」をくらうのである。もちろん、そうでない場合はそれで良いのだが、逆の場合の覚悟というか心構えみたいのものが、大いに必要な時代になったと言いたい。


例えば、あることができるかどうかは、実際にそのこと自体か、かなりそれに近い内容の事をさせた上での結果で判断しないと、可か不可かの判定ができないのである。この部分の表現は、何とも言えず難しい。


学力でいえば、どの科目がどの位できるのか、その科目の中でも分野によってどこができてどこができないのか、精神面でいえば、どのくらい大人なのか、どのくらい集中力が続くのか、どの位失敗を繰り返すとめげるのか、どのくらい叱ると直ったりへこんだりキレたりするのか、どのくらいの責任感や正義感があるのか、などこちらが知りたいことは、全て何らかの査定を施す機会を持つか、こちらが想定する場面を経験するしか、知る術がないということだ。一度査定したことが、日によって変動するのか、するとしたらどのくらいの周期や振れ幅か、なども重要な要素である。


2) 明確な目標設定と期限の設定

教員は、自分が責任を持つ学生一人一人に対して、最終的にやらせたい研究や実験を念頭に置いた上で、必要な知識や技術の習得を細分化し、それらの項目を、いつまでにどれだけ伸ばすかという設定を行う必要がある。これを、きちんと組み立てることができれば、数か月後あるいは1年後、ものすごく成果が上がる。様々な理由でこれを怠ると、後が大変になるだけである。


3) 学生に対するチェック機能を持つ


2)において、やらせたことは、教員は、必ず自分の目でチェックする必要がある。「テキストの○ページから○ページまでは、非常に大切なので次回の講義までにしっかり目を通しておくように」という指示を出しておいたからといって、どこまでマスターして来ているかは、非常にあやしい。「あやしい」というのも、教員目線というか教員の価値観からの判断になってはいないだろうか。教員の心の中にここまでやってきてほしいという願望が含まれるからこそ、「あやしい」などという言葉が使えるのかもしれない。


 


8. まとめとして


放っておいても、自分に必要な知識や足りない部分を自ら補って、独り立ちしていってくれる学生にあたる頻度は、極めて少なくなっていることは、これを読んでくださっている先生方が一番よく知ってみえることだろう。前述の内容で思い出していただきたいのは、過去にずば抜けて成績が良かった子も、スポーツで輝かしい成果を上げていた子も、ほとんどの場合、小さい頃から親がお金や労力を費やして塾や家庭教師をつけたり、スポーツ教室に通わせていたりしただけで、そこで子どもたちがやってきたことといえば、その指導者である塾講師やスポーツのコーチの言うことを受動的にやってきただけなのである。自分の悪い所・足りない所はどこか、どうやったら直るのか、自分と向かい合って、試行錯誤の上で、克服してきたわけではないのだ。つけ加えるなら、親子一対一で対話したり格闘しりしてきた思い出とも言えず、いわば、アウトソーシング化された環境の中で、ビジネス化されたシステムの下、優しく教えられてきたのである。


そうやって育ってきた学生を、大学生なったからといって、突然、できないことを全て自分で克服してみろと言ってみても、自分の悪い所はどこか考えてみろと言ってみても、ハードルが高すぎて、本人はどうしていいかわからず、目は点となり、思考や動作はフリーズし、それが長く続けば、「うつ状態」に陥っていく可能性だって出てくるのである。また、最近増えつつあると思われる、あまりにもサービス過剰な大学に入れば、大学時代まではスムーズにいくが、それはそれで、社会人になってから、そのような壁にぶつかるのであろう。


さらにつけ加えるとしたら、自分から進んで行くことができる「伸びしろ」のある学生に対しては、ハードルを低くしすぎることは、教育的な効果を生まない。子どもの頃の連続になってしまう。


小学生時代から、先延ばしにされてきた、人間教育的な部分も含めて、卒業までに、ある一定の、社会人としての完成に至らなければなければならない。結構、根は深い所にあることは間違いないので、希望が持ちにくい。


カウンセリング場面や学校を訪問したりする中で、子どもたちの精神面での低年齢化は急速に進んでいることを痛切に感じる。これは、精神年齢などという大それた基準や、単なる自分のフィーリングではない。先にも述べた、日常生活におけるスキルのレベルの話だ。もちろん、精神的な部分も少なからず含んでいる。全体的に見て、10年位前と比べると、-4歳位で見てちょうど良いと思える。


根拠は、少し前なら、6年生位でしていたサポートを、現在では、中学3年生位で親がしている。中学3年生で15歳位の子から受けていた、将来に対する相談内容が、大学生生活前半位に移行しつつある。「それを解決せずに、高校、大学まで進学してしまったのか?」というような内容だったりするのだ。


本人や親や過去に携わった教員たちを責めているわけではない。各発達段階で、指導すべき責任は果たしてほしいことは、確かだが、社会全体の責任であると思う。


ここでは、大学の先生方から発せられた言葉の中から、頻度が高く、かつ、子どもの頃からの生い立ちと密接な関係があると思われる、以下の現象に、分析を加えることにする。


要するに、ここでのまとめとしては、複数の学生たちを、同じ大学、学部、学科の学生だからといって、均質と見なして進むことができなくなった、ということに尽きる。より細かいメモリの「ものさし」を、何種類も持っていなければ、充実した指導から遠ざかってしまう。放っておけば、ただ時間だけが流れ、4年という期間が終了するのである。


このハンドアウトを読んでいただいた先生方の中には、納得された方もみえれば、非常に落胆された方もいらっしゃることだろう。しかし、現実を把握するところから始めなければ、何も始まらない。たまたま、私は、現代の小学生から大学生まで、常に縦に眺められる立場にあり、現状を報告させていただいた。事前にお話したり、目を通していただいた先生方の中には、「今の大学生に起きていることがどれだけ根深いものかよくわかった」とおっしゃって下さった方や、その「根深さ」故に、「自分の今の指導方法では、自分の到達したいところまで指導できないとわかった」といわれた方があった。


どんな形であっても、私のこの報告が、最後まで読んで下さった先生方の明日からの、学生指導のヒントになることが少しでもできれば、それが私の本望である。また、これがきっかけとなって先生方が指導されている学生が、色々な意味で今まで以上に伸びてくれれば、それが一番私にはうれしい。先生方と学生たちの関係がより充実したものになっていくことを、心から願う次第である。




<謝 辞>


2008年の『双方向型授業の実現を目指して』につづいて、2度目のFD講演をさせていただくこととなりました。確かに、学生の授業評価において、私は高得点をキープさせていただいてはいますが、学生との日々は、千変万化、かつ、暗中模索での毎日であり、これで良いなどということは一度も思ったことはございません。


そんな私に、単独での長時間にわたる講演時間と質疑応答の時間を、安田学長から直々に与えていただいたことに、大変感謝いたします。私の拙い経験が、少しでもみなさんのお役に立つことができれば、そんなうれしいことはありません。


またどこかで、ご感想やご意見を、一人でも多くの皆様から、頂戴できることを願っております。ありがとうございました。

 

 

〔論文〕『超』弱体化時代の、大学生の精神構造 ~生い立ちから探る彼らの深層~の画像1

 

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